僕にとっての「働きたくない、でも生活はある。」

すずひら

■ 今の自分の仕事と生活

僕は、神奈川県の西の端の田舎町に住み、木造賃貸アパート内の狭い自室で本を書いて生計を立てている40歳の既婚者である。

今年、とうとう40歳になってしまった。いよいよ本物のおじさんになってしまった気分だ。30代まではまだ若い、あるいは最盛期、という感覚があったのだが、40代になった途端、「若い」どころか「最盛期」も終わり、もはや「あとはひたすら老化して、死んでいくべき存在」へと自分は変わってしまったのだ、という感覚に襲われて、憂鬱になっている。40回目の誕生日を迎えてからもう何ヶ月も経過しているのに、未だに自分が40歳であるという現実を受け入れきれていない。

学生の頃を思い返してみると、「まあ40歳にもなれば、どこかの企業で課長とかって呼ばれながら、普通に働いて、普通に生活しているんだろうなあ」みたいな想像をぼんやりとしていた気がする。しかし現実は、約4年前に会社員から降りて、その後は生き方における試行錯誤を繰り広げてきており、結果、『ニートマガジン』という名の本へゲストとして呼ばれて文章を書いている中年というこの現状に行き着いている。まさかこんな人生になるなんて1ミリも予測していなかった。学生時代の僕が今の僕を見たらビックリしすぎて絶句すると思う。僕の人生はどうなっちゃったんだろう。そして今後はどうなっちゃうんだろう。何もわからない。何の見通しもない。

ところで、「ニート」って、仕事も職業訓練も通学もしていない「34歳までの」若年層を指す言葉だったはず。この文章を書くにあたって改めて「ニートとは」でググってみたら、検索結果の一番上でAIもそう回答してきた。ということは、AIの回答を鵜呑みにすると、僕の場合、仕事だの職業訓練だの通学だのを云々する以前に、そもそも年齢制限に引っかかってニートではない、という話になる。そんな存在が『ニートマガジン』のゲスト。いいの? 僕がゲストで。主催のゆるふわ無職さんに声を掛けていただいた際は、得意の爽やかな笑顔を作り、二つ返事で謙虚に了解したのだけど、心の中では「40歳のジジイがゲストでいいんか? ゆるふわ君、考え直したほうがいいぞ」と、年上風を吹かせながらツッコんでいた。

しかし、この既成概念に囚われていない感じがニート的で良いとも思える。「ニート的」とは何かわからないけど、自由なやり方にニート味を感じる。僕もニート的メンタリティを見習って、年齢なる既成概念なんて無視しよう。老化なんか関係ねえ。全力で好き放題に生きるのみ。「40代ならこうあるべき」という規範なんて無視しよう。なんだか元気になってきた。溜息をつく回数が減りそうだ。ありがとう、ニートマガジン。

冒頭に書いた通り、今は本を書いて生計を立てている。収入は月に5~20万円程度。20万円に到達するのは新刊を出して間もないときのみであり、雑に平均すると月収は多分10万円ぐらい。世間一般の平均収入よりだいぶ低いだろう。とはいえ、家賃が安いし、子供はいないし、甲斐性無しのため妻を養ってもいないので(妻に養われているわけでもない)、こんなんでも今は暮らしが成り立っている。いつまで継続できるのかはわからない。

本を書いていると言ったところで、自分の書きたいことを書きたいときに書いて個人出版しているだけだ。一応は商業出版も1冊だけ経験したものの、個人出版本に加筆修正したものであり、たいして売れてもいないので、既存の商業の世界へ入り込んだ感覚はまるでない。個人でやっている場合とは異なる腹が立つことを色々と経験して、裁判という手段を行使する間際まで出版社と揉めた部分もあり、出版社との関係は実質的に断絶した。ほのかに抱いていた「商業出版への憧れ」みたいなものも消滅した。

以来、もう本当に、個人で好き勝手にやっている。世間一般の価値基準に照らしたら、今の僕は無職みたいなものだろう。実際、僕は近所から無職だと認識されていると思う。平日の昼間にいつも、いびきすら丸聞こえな木造賃貸アパート内にいるのだから。都会なら家で仕事をしていると思われるだけかもしれないが、僕が住んでいる田舎町は、田舎特有の巨大な事業所を構えているいくつかの企業の勤め人か、小さなお店の店主、あるいは農家が大半であり、そういう地域で平日昼間にほとんど毎日家にいる大人とは、主婦・主夫あるいは無職であるという解釈になる。

隣近所とすれ違うとき、よそよそしい空気も感じる。得体の知れない部外者として自分は見られているのだと肌感覚でわかる。平日の昼間にいつも家にいて、外出するときは寝癖のついたままなボサボサ頭にジャージ。帰宅するときは高確率で酒臭い。そりゃあ得体も知れないだろう。

まっとうなサラリーマン家庭や店主や農家が大半な場所に、高円寺の駅前で昼間から酒を飲んでいる無職風の中年男性(自称作家)が紛れ込んでいるようなものだ。実際に高円寺の駅前で酒を飲んだ経験は無いが、近所の小田原ではよくやっている。時間と金と健康を捧げながら、酒という名の合法ドラッグをキメて世知辛い現実から逃避している。外で酒を飲むと心も身体も解放されて心地が良い。しかし最近は酒に弱くなってきて、気持ちよくなれずにただ具合が悪くなるだけな場合が増えてきた。これも老化の現れだろう。はあ……。

今回の『ニートマガジン』の特集は、「働きたくない、でも生活はある。」とのこと。その気持ち、もちろんわかる。僕も同感だ。僕も概ね働きたくない。とはいえ生活するにはある程度のお金はどうしたって必要で、そのお金を獲得するには働くしかない。という現実の中で、どうにか自分なりの仕事、自分なりの生活を模索していった結果が、今なのだ。場違いな場所に住みながら、作家を自称して、『ニートマガジン』に寄稿している40歳の酒飲みとなっているのだ。

今、幸せか? と問われると言葉に詰まるけど、自分の人生としての納得はできているつもりではある。現代日本社会の中で自分のような人間が生きていくには、まあ、こんな感じになるよなあ、という納得感である。根っからに内向的でゴチャゴチャと内省ばかりしており、人といるとすぐに疲れてしまうこの気質でなければ、僕だってもっと外でアクティブに活動したい。酒にも頼らない。お金のことを気にしなくてよくて、その他一切のしがらみもないのなら、自分と同類な人が大勢いそうな場所、それこそ高円寺あたりで賑やかに生活してみたい。しかし現実には生来の気質があり、お金の問題があり、40年間の人生で背負ってきたしがらみがある。だからまあ、しょうがない。足るを知る、あるいは色々と積極的に諦めている。

さて、ここまでは長い自己紹介みたいなもので、そろそろ本題に入りたい。

ここはゲストコーナーであり特集コーナーではないのだけど、細かいことは気にせず、特集テーマである「働きたくない、でも生活はある。」に関連したものを僕も書きたい。前述の通り、自分自身が思いっきりこのテーマ通りな気持ちを抱きながら生きているからだ。

このテーマに関連して書きたいことはたくさんある。その中で今回は、僕が大切にしている「考え方」を書いてみたい。と言っても、それをノウハウとして読者に提供したいわけではない。今から読んでいただけたらきっとわかる通り、ノウハウとしてすぐ他者のお役に立てるような内容ではないと自覚している。言ってしまえば、当たり前なことをただ書くだけである。

とはいえ自分の中では、今から書くことが「働きたくない、でも生活はある。」という現実と向き合いながら処世していく上での大切な土台となっている感覚がある。だから、ゲストとして呼んでいただいた気持ちに応えるためにも、自分にとっての大切な土台となっている「考え方」を、今からここで書きたい。

当たり前なことだからこそ、案外と無意識の中に埋もれてしまい、実は実行できていない、なんて状況になりやすい実感が僕にはある。だから、ちゃんと言葉にして整理しておくことで、確実に意識の中で実行できるようにしておく価値はあると思う。

■ 思考を具体化したい

さて、本題。僕はものを考えるとき、特に現実問題へ対処するための具体的な行動を考えるときには、なるべく思考も具体的にするように意識している。それが僕の中で土台となっている「考え方」である。具体的な行動を起こすためには具体的な思考が必要だろう、という判断からだ。

思考を具体化するには、使う言葉を具体化すればいい。思考とは言葉の集合なので、1つ1つの言葉を具体的にすれば、必然的に思考も具体的になる。

こういう考え方に則りながら「働きたくない、でも生活はある。」という世知辛い問題への対処を考えようとすると、それぞれの言葉を具体化したくなる。ここで言うそれぞれの言葉とは、「働きたくない」と「生活」だ。

具体化する対象は自分の思考であるわけだから、客観的で辞書的な意味として具体化するのではなくて、「自分はこの言葉に対して、具体的にはどんな意味合いを込めているのか?」を意識していく、という感じになる。

今から、僕にとっての「働きたくない」と「生活」の具体化をしていく。

■「働きたくない」の具体化

「働きたくない」とはどういう意味か? もちろん、「仕事をしたくない」という意味である。辞書的には他にも色々な意味の含め方があるだろうけど、今ここでの文脈において僕が思う「働きたくない」は、「仕事をしたくない」である。

では、「仕事」とは何か? そこを具体化すれば、「働きたくない」の意味も自動的に具体化されるはずだ。

「仕事」という言葉の意味は幅広く、時と所と文脈によってどの意味を指しているのかが変わってくる。では、今ここでの文脈における「仕事」とは何か? 僕は「お金を稼ぐための行為」のことだと解釈している。だいぶ短くて雑だと思われそうだけど、現在の日本社会で一般的に「仕事」と言う場合、往々にしてこういう意味ではないかと思う。そして僕は今ここでの文脈においては、そういう一般的な意味合いでの「仕事」を前提としている。

なお、「仕事」の意味を「お金を稼ぐための行為」とする思考は、資本主義社会の釈然としない現実を踏まえたものであり、本来の「仕事」とは、もっと根源的で人間的な行為であるとは僕は思っている。自分の中にある自然な感覚だけを根拠に言わせてもらうなら、僕は「仕事とは、他者の役に立つことである」と素朴に思っている。本来はそういう行為であるはずの「仕事」が、資本主義という名のお金至上主義によって上書きされているだけ、というふうに考えている。

そんな考えを根本の部分では持っている。とはいえ一方で、今の社会における「仕事」とは、一般的にはお金を稼ぐための行為のことであるという現状把握もしている。そしてその現状把握を前提として、僕は「働きたくない」と思っている。

一旦、ここまでの話を整理すると、「働きたくない」とはつまり「お金を稼ぐための行為をしたくない」となる。なんだか回りくどい言い方になってしまった気はするが、まあ、少しだけ具体化されたとも思う。

ところが、「お金を稼ぐための行為をしたくない」と表現してみると、「いやいや、別にそういうわけではないよなあ」という気持ちになってくる。僕は普通にお金が好きだ。何しろ便利すぎる。好きなお金を得られる行為をしたくない、というのは、我ながら意味がわからない。好きなものを得られる行為なんて、普通はむしろ積極的にやりたいと思うはずだ。

ということは、僕はお金を稼ぐための行為それ自体が嫌なわけではなくて、その行為に付随しがちな別の何かが嫌なのだ、という考えに至る。

では、その「別の何か」とは何か。それを探るためにも、この社会で仕事と呼ばれている行為をやってきた実体験を振り返りながら、何が嫌だったのかを抽出したい。僕には約13年間の会社員(フルタイム正社員)経験と、ここ数年間の個人事業主経験、その他ごく僅かながらアルバイトとフリーランスの経験がある。そうやって現実の社会で仕事と呼ばれている行為を色々と経験してきた結果として「働きたくない」という気持ちになっているわけなので、これら実体験を参照するのが最も確実だ。

ただ、今ここで実体験の振り返りを書き始めるとあまりにも長くなり、ニートマガジンを丸ごと僕の実体験振り返りで埋め尽くす事態になりかねない。だからここでは結論だけを、しかも一文に要約して書いてしまう。

実体験を振り返ると、僕が嫌だったのは、「時間も場所も人間関係もやるべきことも他者から支配されること」である。そう表現できる。僕はお金を稼ぐ行為それ自体をしたくないのではない。お金を餌にされて、時間も場所も人間関係もやるべきことも他者から支配されるのが嫌なのだ。

どこで、誰と、何をするのか。これってもはや、生活そのものではないだろうか。いくら大好きなお金のためとはいえ、生活そのものを差し出すようなことはしたくない。生活のためにお金を稼ぎたい。だからお金を稼ぐ行為へ生活を差し出す。そんなのは本末転倒だ。嫌に決まっている。

しかも、概して本音ではどうでもいいと思っていることに対して真剣なフリをしながら取り組まなければならない羽目になる。お金を出してくれる人に無礼があってはいけない。気に入られておきたい。波風を立ててはいけない。そういう心理が働いて、本当はクソどうでもいいと思っている、自分の人生にとっては雑事に対して、真剣なフリをしていく。それがまたしんどい。疲れる。かったるい。

手短ながら、僕にとっての「働きたくない」の具体化は以上としたい。ここからさらに細部の解像度を上げていくこともできるものの、ここまでの内容だけでも十分に、自分は何が嫌であるかの核となる部分は言葉にできたと思っている。

まとめると、今の社会で仕事と呼ばれていること、つまりお金を稼げる行為をしようとすると、何かと時間・場所・人間関係・やるべきことを他者から支配される状況に陥り、それが嫌なのだ。別の表現もしてみると、お金というあまりにも強力なツールを餌にされて、自分の生活を他者に支配されるのが嫌なのだ。

もちろん、今の社会で仕事と呼ばれていることのすべてがそうである、という話ではない。「少なくとも自分の場合、何かとそうなりがち」ということだ。だから、厳密に言えば、別に「働きたくない」わけではない。仮に世の中には10個の仕事だけがあるとして、僕がやりたくないのはそのうちのざっくり9個であり、残り1個は別にやりたくないわけではない、というような話になる。

自分の心情をちゃんと言葉にするなら、「今の社会で一般的に『仕事』と呼ばれている行為のうち、体感で9割は何かと自分の生活を支配してくるものであり、しかもその9割が社会の中で幅を利かせており、一庶民の自分はその中から選ぶしかしょうがない状況に追い込まれがちである。そんな現実を踏まえると、概ね働きたくない。でも、そもそも、自分の中で根本にある仕事観はまた別である。本来、仕事とは、他者の役に立つ行為であると思っていて、そちらの解釈を前提とすれば、人間的な欲求として、僕はむしろ何かしら働いていたいと思っている」という表現になる。

これが、僕の言う「働きたくない」の具体的な意味だ。

■「生活」の具体化

続いて「生活」について。「働きたくない、でも生活はある。」と思うとき、僕は「生活」という二文字にどんな意味を込めているのか。

それを改めて意識してみると、すぐ、「まあ、必要十分な衣食住や人間関係、娯楽を確保しながら生きていくっていう感じのことだよなあ」なんてふうには思える。

ただ、本当にそれでいいのだろうか? なんて疑問も湧いてくる。何か、もっと根本的な部分を見落としている感覚がある。

もちろん、今の社会で生きていくにはある程度の衣食住が必須だし、人間関係がないと孤独で死にたくなる。娯楽で気分転換ぐらいしないと気が滅入ってきて、どんどん思い詰めていき、やっぱり死にたくなってくる。だから、必要十分な衣食住や人間関係や娯楽が生活には必要なのは、その通り。「必要十分」とはどの程度なのかを具体化する工程は必要なものの、「生活」の具体化方針として異論はない。

でも、それらはあくまで表面上のわかりやすい生活要素であり、それらよりもっと根本のところにこそ、何か「生活」を考える上での大切なものがあるのだと僕には思えている。それが何かといえば、自己紹介のパートにて少し触れた「納得感」である。

僕は、一度きりで、決して巻き戻せなくて、死んだら終わりで、いつ死ぬかわからないこの人生を、自分の人生であると納得しながら生きていきたいと思っている。だから、そうやって生きていくことそれ自体を「生活」の二文字に込めたい。

具体化すると言いながら「納得感」なんていう抽象的な話をしてしまっているのだけど、そうとしか言いようがない。とはいえもう少しイメージしやすい表現を試みると、死ぬ瞬間に「ああ、自分の人生を生きたなあ。仮にもう一度、同じ人間性や同じ社会の中で人生をやり直せるとして、結局同じように生きるのだろうから、もう、悔いなし。さよならー」と心底から思えて、納得してこの世を去れる。そんなゴールを目指して生きていくことこそ「生活」である。僕は自分の中でそのように具体化し、その具体化に沿って生きている。

では、このような意味での納得感を持てる「生活」とは、具体的にどんなものか? というところについては、人によって千差万別であり、正解なんてものはない。僕の場合は、自分の気質や、試行錯誤による実体験を踏まえて、今の暮らしに行き着いている。場違いな場所に住み、年齢制限によりニートの資格を喪失しているはずなのに『ニートマガジン』に寄稿している40歳の物書き酒飲み中年となっている。どうしてこうなっちゃったんだろう。

■ 今の暮らしへ

どうしてこうなっちゃったのか我ながらよくわからないのだけど、まあ、納得感は得られているつもりではある。

僕は概ね働きたくないものの、完全に働きたくないわけではないし、そもそも自分の中には今の社会で一般的に使われている仕事観とは別のものだってある。

物を作る行為なんかはけっこう好きで、中でも文章を書く行為に対してはそれなりのこだわりを持っている。自分が書いた文章が誰かに対して何かしらを提供できるのだとしたら、それは素直に嬉しい。そういう営みすらやりたくないという意味で「働きたくない」とは思っていない。

せっかく一度きりの人生を生きていくからには、自分なりにこだわりを持っている活動に打ち込みたいとも思っている。そうしないと死ぬ瞬間に悔いが残りそうだ。衣食住や人間関係や娯楽も確かに必要だけど、多くは求めない。最小の必要だけでいい。豊富な衣食住や娯楽に囲まれながら快適に気楽に安全に生きていきたい気持ちだって僕の中にはあるけど、「でも、どうせ死ぬしなあ。死ぬ瞬間に後悔したくないなあ」という気持ちを前にすると、快適・気楽・安全というようなものよりも、自分がやりたいことをやれるうちにやっていくほうが重要であると思える。そしてそれ以外は最小の必要でいいやと開き直ってしまえる。

結果、田舎の木造賃貸アパートにて半引きこもり的生活を送りながら文章を書いている現状へ至っている。正直、もうちょっと都会寄りな場所に引っ越したい気持ちが最近は湧いてきている。田舎暮らしに飽きてしまっている。住まい以外にも悩みは尽きない。でもまあ、そういう悩み込みで、自分の選択した人生として納得はしている。

それにしたって、僕は今後、どうするつもりなのだろうか。今後に対する勝算どころか計画すら何もない。色々と出来る限り頑張るしかないなあ、という意気込みしかない。老後どころか1年後にどこで何をしているのかすらわからない。

だから人生は面白い。何がどう展開してどんな人生になるのかまるで見通せないからこそ、実際に生きて実体験していく楽しみがある。先が見えている展開をなぞって生きていくのは僕には退屈だ。

どうせ死ぬのに、他者に人生の主導権を明け渡し、やりたくないことを強制されながら生きていくのなんてもったいなくてたまらない。やれるだけのことをして、やりたいように生きていきたい。だから僕は、世間から何を言われようと、自分の「働きたくない」気持ちを具体化し、「生活」も具体化し、それに沿って自分の人生を生きていくのである。

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