仏教とワーク・ライフ・バランス

安眠計画

南無阿彌陀佛

本稿は「働きたくない、でも生活はある。」という今回の特集記事のテーマに寄せて書こうとした残骸であり、またひとりの労働者にとっての「喫煙所」である。

これまでニーマガvol.1~3まで(特にvol.3において)内容が思想的でとっつきづらいという一部の感想を受けて、それでは実生活に焦点を当てようではないかというのが本テーマ決定のコンセプトであったと認識している。具体的にはテーマ名にある「生活」や、「散歩」「自炊」「暮らし」「ライフハック」などが、発起人であるゆるふわ無職くんから題材例として挙げられた。俺も当然、そうした具体的な実生活について、日常的な感覚に即した、ゆるく穏当な文章を書こうとした。俺は僧侶だから、当宗で大切にしている「平生念佛(臨終の間際ではない、日常生活のお念佛)」と絡めて書いてみよう。あるいは宗門大学の卒業後の進路に本山格の寺院が挙げられるように、「僧侶」は仕事なのか? という問いを立ててみても面白いかもしれない。なるべく説教くさくなってしまわぬよう(そもそも宗教者が説教くさくなくて、どうするのだというのは措いて)、細心の注意を払って。

が、いずれもプロットまでは完成したが、本文を書き出すとどうにも筆が乗らない。考えてみれば、ここ数週間、ろくに休みらしい休みがなかった。カレンダーの日付が黒い日(平日)は卑しい他人軸のサラリーマンとして最低八時間資本家に拘束され、日付の青い日や赤い日(土日祝)は僧侶として世話になっているいくつかのお寺に出仕している。俺の実生活を素直に、具体的に書いていては、あまりにも本マガジンの趣旨から外れてしまうだろう。そうした労働最高(再考)! と言ってしまえるような俺の実生活については、いつか特集記事として取り上げられるともっぱらの噂である

〝ヴィラン〟回まで温めておくとして、客観的に見て大車輪の如く働き回っている自分が「働きたくない、でも生活はある。」というテーマから思い至ったのが本稿で考察する「ワーク・ライフ・バランス」という概念である。上述した題意に背くような抽象的な、かつ大変説教くさい文章になってしまう恐れは大いにあるが、本マガジンのようなニートたちの遊び場にも、どうかほんの数頁程度、卑しくも他人軸で働く労働者のサボりスペース、心の喫煙所を設けてほしいと伏して願うものである。

ときは平成十九年十二月十八日、関係閣僚、経済界・労働界・地方公共団体の代表等からなる「官民トップ会議」において、「仕事と生活の調和(ワーク・ライフ・バランス)憲章」・「仕事と生活の調和推進のための行動指針」が策定された。ゼロ年代真っ只中の(「涼宮ハルヒの憂鬱」の第一期テレビシリーズが放送された翌年である)十八年前に標榜された「仕事と生活の調和」とは、何を意味するのだろうか。

内閣府 男女共同参画局 仕事と生活の調和推進室が運営する「仕事と生活の調和推進サイト」によると、「国民一人ひとりがやりがいや充実感を感じながら働き、仕事上の責任を果たすとともに、家庭や地域生活などにおいても、子育て期、中高年期といった人生の各段階に応じて多様な生き方が選択・実現できる社会」と定義されている。うーん、なんだかよくわからない。そもそも「仕事」に対置される「家庭や地域生活」や、「子育て期、中高年期」といったライフステージの設定自体に、労働讃美・労働力再生産主義的なにおいがプンプンする。

そこで少し長いが、同サイトからもう少し具体的な記述を左に引用する。

「仕事は、暮らしを支え、生きがいや喜びをもたらすものですが、同時に、家事・育児、近隣との付き合いなどの生活も暮らしに欠かすことができないものであり、その充実があってこそ、人生の生きがい、喜びは倍増します。しかしながら、現実の社会には、安定した仕事に就けず、経済的に自立することができない、仕事に追われ、心身の疲労から健康を害しかねない、仕事と子育てや老親の介護との両立に悩むなど、仕事と生活の間で問題を抱える人が多く見られます。これらが、働く人々の将来への不安や豊かさが実感できない大きな要因となっており、社会の活力の低下や少子化・人口減少という現象にまで繋がっていると言えます。それを解決する取組が、仕事と生活の調和(ワーク・ライフ・バランス)の実現です。仕事と生活の調和の実現は、国民の皆さん一人ひとりが望む生き方ができる社会の実現にとって必要不可欠です。皆さんも自らの仕事と生活の調和の在り方を考えてみませんか。」云々。

なるほど。ここまで読んで、いくつかイチ労働者にも指摘できそうなふいんき(なぜか変換できない)がしてきたぞ。

まず、なぜ仕事ワーク「ごとき」が、生活ライフとタイマンを張っているのだろうという疑問については、「暮らしを支え、生きがいや喜びをもたらすもの」という前提が効いてくる。アンチワーク哲学的には金銭の授受に基づく強制と定義づけられる(賃)労働も、どうやらお上には「貢献欲の発露」のように見えているらしい。それに関しては一定の妥当性がある。現代日本においては、昭和中期の北海道の「タコ部屋」や、九州の炭田地帯の「納屋制度」のような非人間的環境下で労働者を身体的に監禁・拘束して過酷な肉体労働を強いることはほぼない。あるとすれば、苦手な上司や取引先にこびへつらわなければならないといった「内心の自由」の侵害程度のものだろうか。あるいは、個人の意志と自由を尊重し、労働基準法に基づいた健全な労使契約の履行が、労働者側の能力不足や当初思い描いていた理想とのギャップによって難しくなる場合も考えられる。どれだけ天職だと思っていた生業ライフワークも、分量やタイミングがほんの僅か異なるだけで、本人やその近親者を害する糞業ブルシットワークになってしまう。ある中小起業家は「自分の会社を作って独立したら、雇われていないのでもうONもOFFもありません。仕事も趣味も出張も旅行も、すべてが自分の生活です。呼吸をし飯を食うように、仕事も遊びも何もかもが自分の人生であり生活の一部なのです。雇われているからこそ、OFFが必要になるわけで、自分ひとりで生きていくという状況では、ONもOFFもありません。」などと書いているが、すべての行動の前後で絶えず「これは自分の意志か、それともなんらかの強制力への従属か」と判断していては、良く転んだとしてもパフォーマンスはガタ落ちするだろう。悪ければ発狂だ。お腹が空いたな、米でも炊こう。待てよ、これは自らの意志だろうか。いや、空腹という自己保存のための本能に従っているだけであり、自らの意志ではない……。目の前で困っている子どもや高齢者を助けよう。これはさすがにわたしの意志だろう。いや、これも善人と思われたいだけかもしれない。いやいや、これは貢献欲の発露であり、主体的な選択をしたという確かな実感が伴っている! おや、社会を良くするために草の根活動をやっている人たちがいるぞ。彼らの列に加わることこそ、わたしの意志だ、貢献欲だ! ……気がつけば、耳心地の良いお題目を唱えながら、無報酬でとんでもない「やりがい搾取」に遭遇してしまうかもしれない。はじめは貢献欲の発露だと信じて(あるいは自ずから「実感」して)疑うことのなかった「自分の心からやりたいこと」も、体調や精神状態、ともにその「遊び」を行うメンツや、あるいは共に「遊ぶ」ツレの体調や精神状態、そうした諸々の要因からなる微妙な関係性の変化、ちょっとした行き違いなどによっていとも簡単に糞化(ブルシットワーク化)してしまう。賃労働をやめ、強制を拒否し、「自分の心からやりたいこと」を仮に見つけられたとしても、結局のところ「自分」がある限り、メシを食いクソをして「生活」は続いていく。自分が大事、自分軸で生きていくなどといっても、あくまで「自分」というフィクションに基づく限り、私たちの祖先である原猿がそうであったように、快を増大させるむさぼり(梵:rāga)と、不快を避けるいかり(梵: dveṣa)、に基づいて、「たった一度しかない人生」というフィクション──それはなんの根拠もないのに多くに人がぼんやりと霊感している信仰だ──を飾り立てることで人生を満たすくらいなら、お上の定義するように自由資本主義的な、職業選択の自由に基づいた「貢献欲の発露」としての賃労働に身を投じている方が、いくらか社会は、そして自分(という物語)は良くなっていくことに違いない。

断言するが、絶対的な幸福にしみったれた自由意志は必要ない。いかに自分自身をコントロールしていくかという脩身モラルサイエンスも、これがわたしの真の生業ライフワークなんだ! という絶えざる自己洗脳も必要ない。左記するたったふたつの事実を受け容れるだけでよい。

事実1:すべてのものは例外なく必ず死ぬ

あらゆるものは絶対に死ぬ。また同様にすべての仕事の成果は、産み出した(ように見える)価値は、塵になって消える。何も残らない。あるいは仮にほんの僅かな期間、直径約十三万キロメートルの巨大な地球の表面に、芥子粒ほどの「価値」が残ったとしても、この世界にある限り、他者の新たな執着、苦しみの原因となる。どんなに価値ある充実した生を、自己決定感に満ちた豊かな生を送ったとしても、死は避けられない。むしろそうした自己決定の陶酔感に酔い痴れていればいるほど、決定と選択の主体たる「自己」が崩れ去るときの苦痛は堕地獄にも等しい。

大般涅槃経には、天人は衣裳垢膩えしょうこうじ頭上華萎ずじょうかい身体臭穢しんたいしゅうわい腋下汗出えきげかんしゅつ不楽本座ふらくほんざの天人五衰を経て、臨終間際に地獄の十六倍の苦痛(断末魔)を受けて死に至るとある。この世はわが世ぞとばかりに天にも昇る気持ちで過ごす者は、「わが世界」と離れる際、そのすべての幸福感を上書きするほどの苦痛に苛まれる。そしてその苦痛は、仏典にあるように事実として予め決定している。

また仏教では、「自分」という物語を解体した真なる生き方の指針として「八正道」を説いている。

即ち正見(しょうけん)・正思(しょうし)・正語(しょうご)・正業(しょうごう)・正命(しょうみょう)・正精進(しょうしょうじん)・正念(しょうねん)・正定(しょうじょう)の八つである。限られた紙幅とてその委曲を尽くすことは思いも寄らないが、そのうちの一つ「正業」つまり「正しい仕事」は、他者を害することなく、自らの生活を支え、社会に貢献する形で働くことを指していると通仏教的に理解されている。

釈尊は「暴力的な(殺生を伴う)仕事や、人を欺くような職業は避けよ」と説きつつ、仕事そのものが人間の精神的成長を支える重要な実践であることを示唆した。これは先に引用した「仕事は、暮らしを支え、生きがいや喜びをもたらすものです」という内閣府の定義とも違わない。先述した事実1と「働きたくない、でも生活はある。」というテーマに通仏教的な、あるいは通俗的な結論を出すとすれば、「ぐだぐだいってないで働け」ということになってしまう。

これまで書いてきた通り、「自分軸哲学」にせよ、お上の定義にせよ、また通仏教的理解に基づいたとしても、どれひとつ取っても労働は単に生活の糧を得る手段ではない。中でも仏典に説かれる正業としての労働は、自身の欲望をコントロールしつつ、他者と調和しながら生きる道である。現代日本におけるニートは、この正業の原則から離れてしまった状態にあると言えるのかもしれない。働くことを拒絶しながら生活を維持するという形態は、一見生活を支え(られ)ているように見えても、むさぼりやいかりといった煩悩を克服する機会を失い、魅力的であるはずの「実践の場」から距離を置いてしまっている。

そこで適当に働くことのできない者は「自分軸哲学」を編み出し、「主体的に選択した実感」という大変うつろいやすいものに「たった一度の生」を空費し、やがて死ぬ。

こうした労働(=強制)が世界をつまらなくしているという陰謀論や、愛国カルト(現代における「愛国」とは拡大した自己愛にほかならない)の勃興は、明治から昭和二十年にかけて、お上の言うことが絶対であった全体主義的時代の反動から生まれた戦後文学に称揚されるようなエゴイズムが淵源にあると愚考するが、これについてはフリー記事「蜆考」にて詳説する。

閑話休題。では実践不可能な自分軸哲学やお上のいうような通俗的価値観ばかりでなく、仏教までもが、ニートの存在を否定するのだろうか?

――否。本朝には自身の快と不快にしか関心のない原猿丸出しの自分軸のまま、またどんなに卑しく無意味な賤業に従事していたとしても、むさぼりといかりの二河の間をすっと通り抜けることのできる「裏ワザ」を編み出した大仏教者がいる。浄土宗開祖法然房源空そのひとである。

法然上人は、当時差別的な立場にあった殺生を生業(なりわい)とする者や、茶道、香合、立花(生け花)、書道、和歌、俳諧、音曲、絃楽、遊戯など万芸を会得し、『八代集(古今和歌集から新古今和歌集までの勅撰和歌集)』や『源氏物語』、『竹取物語』などに通暁し漢文をも読んだ夕霧太夫のような高級娼婦ではなく、川に浮かべた小舟の上で自らの身体を売るしかない下級遊女などの身分の者にも次の事実を明かした。

事実2:すべてのものは南無阿弥陀佛と称えると、必ず極楽浄土へ往生することができる

大乗仏教的な視点からすると、「働きたくない、でも生活はある。」という葛藤を単なる「悪」として裁くべきではない。むしろ、ニートもまた生きる苦悩と向き合う人間であり、その状態に潜む無明(悟りに至るための理解の欠如)を明らかにし、可能な限り「正しい仕事」の道へ導かねばならない。では自分軸で生きる凡夫にも可能な正しい仕事、正業とはなんだろう。それこそは阿弥陀仏によって正しく定められた行、称名念佛にほかならない。

『観無量寿経疏』に「次に行に就いて信を立つとは、然るに行に二種有り。一には正行、二には雑行なり。正行と言うは、専ら往生経に依りて行を行ずる者、これを正行と名づく。何者かこれなる。一心に専らこの『観経』、『弥陀経』、『無量寿経』等を読誦し、一心にかの国の二報荘厳に専注、思想、観察、憶念し、もし礼するには、すなわち一心に専らかの仏を礼し、もし口に称するには、すなわち一心に専らかの仏を称し、もし讃歎供養するには、すなわち一心に専ら讃歎供養す。これを名づけて正と為す。この正の中に就いて、また二種有り。一には一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近(くごん)を問わず、念念に捨てざる者、これを正定の業と名づく。彼の仏の願に順ずるが故に。」とある。こうした本願念仏説を継承し、さらに先鋭化させた選択本願念佛説を記した書物『選択本願念佛集』が、本朝の歴史上初めての発禁本となり、宗団への激しい弾圧を受けたことは、そのラディカルさを想うと宜なるかな、だ。

「すべてのものは死ぬ」という事実から「死ねば無」というなんの根拠もない霊感を語るのであれば、経典やその注釈書というエビデンスをもとにして、死ぬまでの生活を「順彼仏願故」と念佛を軸として生活していく方が、よほど正しく、平等で、幸福で、明晰だ。

さて、一服煙草も喫ったことだし、そろそろ念佛に戻ろうと思う。願わくばこの一本の煙草が、これを読んだ善なるニートたちの往生極楽のきっかけとして、西方に廻向されますように。

弥陀本誓願 極楽之要門

定散等廻向 速証無生身

合掌

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