ニートと読む『ジョジョの奇妙な冒険 第5部 黄金の風』

ゆるふわ無職

みなさんには座右の書バイブルとでも呼べるような作品はあるだろうか? 自分の生き方に大きく影響を与え、何度読み返しても勇気や励ましが貰えるような、己の人生に欠かせない作品のことである。

私にとっての座右の書バイブルは『ジョジョの奇妙な冒険 第5部 黄金の風』である。

私と『ジョジョ』の出会いは、確か中学2年生のことだ。みんなで「モンスターハンターポータブル 2nd G」をやるために、Sくんという友人の家に遊びに行ったのだが、次第にゲームにも飽きてきたころ、私がSくんの部屋で発見したのが『ジョジョ5部』の単行本だったのである。

『ジョジョ』というの作品の存在は知っていた。当時の私はインターネット・キッズであり、ゼロ年代のネットには『ジョジョ』のパロディが溢れていたからである(「朝目新聞」や「アサメグラフ」をよく閲覧していた)。だが、実際に『ジョジョ』を読んだことはなかった。絵はクセが強く、巻数も多く、当時の私にはとっつきづらかったのだ。

そういうわけで、Sくんの部屋で『ジョジョ』を手に取ったのも、ほんの気まぐれであり、ただの退屈しのぎであったのだが、読んでみるとこれが異様に面白い。頭脳戦の能力バトル、強烈なキャラクター、独特の作画と構図。私はすっかり『ジョジョ』に夢中になり、みんながゲームを再開しても漫画を読んでいるという完全に空気が読めないやつになっていた。そして、最終的にはSくんに単行本を借りて帰った。

こうして『ジョジョ』の世界に入門した私は、以後お小遣いを貯めては、1部から7部までのコミックスを買い集め、全巻読破することになる。もちろん、どの部も好きなのだが、シリーズを通して一番好きなのは、偶然にも最初に読んだ『ジョジョ5部』である。当時中学2年生という多感な時期であった私に『ジョジョ5部』は大きな影響を与えた。まさに己の人生に欠かせない座右の書バイブルとなった。そして、ということはもちろん、私がこうして「ニート」的な生き方を選択している背景についても、『ジョジョ5部』の影響を抜きに語ることはできない。前置きが長くなってしまったが、この記事では「ニート的な視点」から『ジョジョ5部』を一緒に読み解いていきたい。以下、完全にネタバレ注意である。

■ ジョジョ5部のあらすじ

まずは、簡単にジョジョ5部のあらすじをおさらいしておこう。

『ジョジョ5部』はイタリアを舞台に主人公のジョルノ・ジョバァーナが「ギャング・スター」に成り上がるまでを描いた作品である。

ジョルノは母親に育児放棄され、義父に頻繁に殴られ、悲惨な少年時代を送っていたが、名も知らぬ瀕死のギャングを助けたことによって「人を信じる」ことを知る。そして、セリエアーのスター選手に憧れるよりも、「ギャング・スター」に憧れるようになったのであった。

青年となったジョルノはイタリアの裏社会を牛耳るギャング組織「パッショーネ」とトラブルになり、構成員のブローノ・ブチャラティの襲撃を受ける。だが、戦闘の最中でブチャラティが「自分の所属する組織が麻薬を子供に売り捌いている」事実に葛藤を抱いていることが判明し、両者は戦闘を中断する。そして、ジョルノは「パッショーネのボスを倒して、組織を乗っ取る」という野望を告白し、その想いに共鳴したブチャラティは自分のチームにジョルノを引き入れるのであった。

その後、ブチャラティチームはボスから「ボスの隠し子であるトリッシュをボスの元まで護衛せよ」という任務を命じられる。ボスの娘を付け狙う者は多い。ボスの娘を確保すれば、正体不明のボスについての情報が掴めるからである。数多くの襲撃者を撃退し、ブチャラティたちは苦難の末にボスの待つヴェネツィアに到着する。だが、そこでボスの真意が「自らの手で確実に実の娘を始末する」だったことが判明する。ブチャラティはそれを許すことができず、満身創痍になりながらもトリッシュの身柄を取り戻す。そして、ブチャラティたちは「裏切者」として組織パッショーネから追われることになるのであった。

ボスや組織の追手の猛攻は続き、アバッキオやナランチャといったチームの仲間たちは次々と命を落としていく。だが、最終決戦において、ジョルノはブチャラティの自らを命を懸けたサポートでキーアイテムの「矢」を手にする。そして、「矢」によって自分の能力を進化させたジョルノは、組織のボスであるディアボロを撃破したのであった。

こうして、ジョルノは去っていった仲間の意志を継いで、パッショーネの新たなボスとなる……というのが『ジョジョ5部』のあらすじである。

■ ブラック企業を辞めてニートになる話

では、ニートと『ジョジョ5部』にはどんな共通点があるのだろうか? まず、初めに言及したいのは、『ジョジョ5部』とは「主人公たちがブラック企業を辞めてニートになる話である」ということだ。

物語中盤において、ブチャラティは組織のボス(本名ディアボロ)に対して反旗を翻し、組織パッショーネを「裏切る」ことを決意する。ブチャラティは「組織が麻薬の売買に手を染めていること」と「ボスが自らの保身のために実の娘を始末しようとしたこと」が許せなかったからである。

このとき、ブチャラティはチームメンバーに以下のように語る。

「オレは『正しい』と思ったからやったんだ。後悔はない……こんな世界とはいえ、オレは自分の『信じられる道』を歩んでいたい!」

『ジョジョの奇妙な冒険 第56巻』より

いつ読んでも心を打つ名セリフであるが、チームメンバーたちはブチャラティが「裏切り」を決意した事実に困惑し、動揺する。なぜなら、組織を裏切ることは、ほぼ確実に逃れられない粛清と死を意味するからだ。

これは、私たちの生きている社会に置き換えてみれば分かりやすいだろう。この現代において、組織を裏切る――つまり、仕事をやめてニートになることは、社会的な死を意味しているからである。いきなり上司のおっさんが「こんな世界とはいえ、オレは自分の『信じられる道』を歩んでいたい!」と語りながら退職届を叩き付け始めたら、どんな部下だって動揺するだろう。

だが、ブチャラティという上司が偉大なのは、決して部下に一斉退職を命令しないところだ。

「『助け』が必要だ……ともに来る者がいるのなら……この階段を降りてボートに乗ってくれ」 「ただし、オレはお前たちについて来いと『命令』はしない……いっしょに来てくれと『願う』こともしない……オレが勝手にやった事だからな……だからオレに義理なんぞ感じる必要もない」 (中略) 「だめだ……こればかりは『命令』できない! おまえが決めるんだ……自分の『歩く道』は……自分が決めるんだ……」

『ジョジョの奇妙な冒険 第56巻』より

結局、これまでのブチャラティの人徳もあって、ジョルノに加えて、アバッキオ、ミスタ、ナランチャが自主的に組織を裏切ること――退職してニートになることを選択する。

もちろん、彼らに待ち受けていた運命は過酷なものであった。最終的に、この戦いにおいて、ブチャラティ、アバッキオ、ナランチャの3名は命を落とすことになる。だが、彼らがそれで不幸であったのかと問われれば、それは断じて否であるはずだ。

最終決戦において、ブチャラティは魂が天に昇っていく前に、ジョルノにこのように告げる。

「ジョルノ……オレは生き返ったんだ。故郷……ネアポリスでお前と出会った時……組織を裏切った時……にな。ゆっくりと死んでいくだけだったオレの心は生き返ったんだ……お前のおかげでな」 「幸福というのはこういうことだ……これでいい……気にするな……みんなによろしくと言っておいてくれ……」

『ジョジョの奇妙な冒険 第63巻』より

ブチャラティには組織を裏切らないという選択もあったはずだ。麻薬の流通を、トリッシュの抹殺を見逃し、組織の命令に黙って従っていれば、それなりの地位と財産を手に入れて無難にうまく生きていくこともできただろう。だが、そのような人生を送ったとして、果たしてブチャラティは幸福だったのだろうか? まさに「ゆっくりと死んでいく」だけだったのではないだろうか?

私たちは、このブチャラティたちの気高い選択から生き方から学ばなくてはならないはずだ。株主や上層部の利益のために、何の役に立っているのかも分からないような仕事――ときには人々に「被害」すらかけているブルシット・ジョブと呼ばれるような仕事――を続けながら、嫌な上司や顧客にこびへつらい、ゆっくりと死んでいくような人生を送る。本当にそれでいいのだろうか?

もちろん、ニートになるのは誰だって恐ろしい。将来はお先真っ暗だ。オレだってヤバイと思う。だからこそ、そんな退職の恐怖に立ち向かうときは、このジョルノの名言を思い出してほしい。

「『覚悟』とは! 暗闇の荒野に! 進むべき道を切り開くことだッ!」

『ジョジョの奇妙な冒険 第55巻』より

■ 社会的弱者としてのアウトローたち

また、ニートと『ジョジョ5部』を語る上で忘れてはならないのは、ブチャラティチームのメンバーたちは皆、「普通に生きることの出来なかった人間」であるという点だ。彼らの生い立ちを箇条書きにすれば以下のようになる。

  • ジョルノ:実父は不在。母親からは育児放棄され、義父から暴力を受けて育つ。
  • ブチャラティ:両親が離婚。父親が麻薬の取引現場を目撃して撃たれ昏睡状態に。父を守るために殺人を犯す。
  • アバッキオ:正義感から警察官になったが、社会の腐敗に失望して汚職に手を染める。そのことが原因で同僚を死なせてしまう。
  • ミスタ:正当防衛にも関わらず、懲役30年の有罪判決を下されてしまう。
  • ナランチャ:冤罪で少年院に1年間入れられた挙句、目の 病を患いながら浮浪児として生活を送る。
  • フーゴ:裕福で高IQであったが怒りの感情のコントロールができず、暴力事件で将来を断たれる。

こうした生まれ持った特徴や不運な環境によって、彼らは一般社会からつまはじきにされ、「ギャング」という生き方を余儀なくされる。彼らは「そう生きるしかなかった」人々なのである。このことについては、作者の荒木飛呂彦も繰り返しコメントしている。

この第5部『黄金の風』を描く時にぼくは考えました。では、「生まれて来た事自体が悲しい」場合、その人物はどうすればいいのだろうか? 人は生まれる場所を選べません。幸せな家庭に生まれる人もいるし、最初からヒドイ境遇に生まれる人もいます。で、もし「運命」とか「宿命」とかが、神様だとか、この大宇宙の星々が運行するように、法則だとかですでに決定されているものだとしたら、その人物はいったいどうすればいいのだろうか? そのテーマがこの第5部『黄金の風』の設定であり、登場する主人公や敵たちです。

『ジョジョの奇妙な冒険 文庫版39巻』あとがき より

第5部では居場所のない人間を描きたかったんですよね。もうそこに行くしかないという。

『ユリイカ 2007年11月臨時増刊号』より

このような「運命」の問題は、私たちのように「ニート」という生き方してしている人間――いや、余儀なくされている人間にも当てはまることではないだろうか? おそらく、本気で「ニートになりたい」と思って生きてきた人間など、ほとんどいないはずだ(「ニートになってずっとゴロゴロしていたい」などの軽口は別として)。私たちはブラック労働、家庭不和、貧困、精神疾患、発達障害など、それぞれに複雑な事情や背景があって、ニートという生き方を余儀なくされている。それぞれに「ぬきさしならない状況」があってニートをしているに違いないのである。

実際、私自身も、漫画のように劇的に不幸な生い立ちではないが、幸福な生い立ちであるとも言い難い。小さいときから父親と母親は不仲で、いつも喧嘩をしていた。父親は私に無関心で、本気で褒められたことも本気で怒られたこともない。母親は私をよくヒステリックに怒鳴りつけ、世間体や学歴ばかりを気にしていた。また、生まれつき身体が弱く、さらに22歳のときに鬱病と診断され、今でも1年の半分ぐらいは布団で寝込んでいる。明確に「これが原因である」と断言することはできないが、私は望む望まずに関わらず、ニートになってしまっていた。無気力でまともに働くことができないニートに堕落してしまっていたのである。私は今後もこのような生き方を続けていくほかないのであろう。

だが、私のような人間にとって、『ジョジョ5部』を読むたびに勇気づけられるのは、そこに「悲惨な運命に定められた人が、せめて正しく生きようとしている姿」が描かれているからである。ジョルノが、ブチャラティが、アバッキオが、ミスタが、ナランチャが、フーゴが、満身創痍になりながらも「真実」に向かおうとしている姿に心を打たれるのだ。私にとって、彼らは永遠のヒーローなのである。

主人公たちは「運命」や「宿命」を変えようとはせず、彼らのおかれた状況の中で、「正しい心」を捨てない事を選んだのです。正義の心の中にこそ「幸福」があると彼らは信じて、自然にそうなったのです。(中略)「本当にありがとう。君たちは、苦しくつらい時に吹いてくれる『黄金の風』なのだ」と。

『ジョジョの奇妙な冒険 文庫版39巻』あとがき より

■ 資本主義の象徴としてのディアボロ

また、『ジョジョ5部』におけるラスボス、組織パッショーネのボスであるディアボロは資本主義を象徴している存在だと言えるだろう。

ディアボロは「キング・クリムゾン」という能力を持つ。まず、主能力として、キングクリムゾンは自分以外の「時間を消し飛ばす」ことができる。時間を消し飛ばすと、そこには「結果」だけが残り、ディアボロ以外の人間は消し飛ばされた時間を体験しない。さらに、補助能力として「エピタフ」を持つ。エピタフは数十秒先の未来を予知することができ、これによりディアボロは未来に発生する出来事を把握して、それに対応することができる。

まとめると、こういうことだ。ディアボロは、「エピタフ」で未来を予知し、そこで視た不都合な出来事を「キング・クリムゾン」の能力で消し飛ばす。この無敵の能力を駆使して、ディアボロは決して沈むことのない「絶頂」の人生を送ってきた。

「どんな人間だろうと……一生のうちには『浮き沈み』があるものだ。『成功したり』『失敗したり』……だが……未来という目の前に……ポッカリ開いた「落とし穴」を見つけ! それに落ちる事がなければ人生は決して『沈む』事がない『絶頂』のままでいられる わたしは……!」

『ジョジョの奇妙な冒険 第56巻』より

ディアボロは「キング・クリムゾン」の能力を駆使し、ギャングとしてのし上がり、邪魔者を始末し、手段を選ばず「帝王」として君臨してきた。彼にとっては「結果」が全てであり、それ以外の「過程」などは便器に吐き出されたタンカスほどどうでもいいことなのである。

「『結果』だけだ! この世には『結果』だけが残る!」

『ジョジョの奇妙な冒険 第56巻』より

主題に戻ると、このようなディアボロの生き方は、まさに資本主義を体現しているとは思わないだろうか? 資本主義は経済成長を前提としており、常に「結果」が求められる。そして、そのためにはどんなに個人を踏みつけても構わない――具体的には、パワハラ、長時間労働、過労死など――という吐き気を催す邪悪さがある。永遠の「絶頂(経済成長)」の為に、「結果」だけを重視するという共通点がそこにはあるのだ。

そして、このようなディアボロや資本主義の考え方と対をなすのが、組織パッショーネを退職してニートになった主人公ジョルノたちである。最後のセクションでは「過程」を大切にする彼らの姿について解説していきたい。

(とはいえ、ディアボロのような人間も見方を変えれば、ある意味「かわいそうなヤツ」である。彼は常に「絶頂」であることに取り憑かれ、いつも自分の人生に「落とし穴」が現れないか恐れていた。実際、ディアボロ(とそのスタンドの「キング・クリムゾン」)は冷や汗をかいているシーンが多く、どっしりと構えたギャングの帝王という印象はないものだ。そして、最終的にディアボロはジョルノの進化したスタンド能力「ゴールド・エクスペリエンス・レクイエム」を喰らい、致命傷を負ったのにも関わらず、「『死ぬ』という真実にさえ到達することができない」という効果によって、永遠に迫りくる死の恐怖を味わうことになる。資本主義に脳髄まで侵され、常に効率や生産性を求めてくるような人間も、見方を変えれば常に恐怖に晒されている「かわいそうなヤツ」なのかもしれない。)

■ 「無駄」という人間賛歌

最後に取り上げたいのは、主人公ジョルノ・ジョバァーナの決めセリフ、「無駄」についてである。

そもそも、ジョルノは『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズにおける諸悪の根源であるディオ・ブランドーの息子だ。より正確には、第1部の主人公ジョナサン・ジョースターの肉体を乗っ取ったディオから生まれた息子である(その複雑な経緯については割愛させてもらう)。『ジョジョ』といえば、「第3部 スターダストクルセイダーズ」における承太郎VSディオの「オラオラオラオラ!」「無駄無駄無駄無駄!」という殴り合いラッシュ対決があまりにも有名であるが、ジョルノは実父の口癖を生まれつき継いでいたということであろう。

ここで触れておきたいのは、悪役のディオが放つ「無駄」とは、人間を否定する「無駄」であるということだ。

「あがいてもあがいても人間の努力には限界があるのさ! 波紋法の修行努力など無駄無駄無駄―――っ!」

『ジョジョの奇妙な冒険 第5巻』より

『ジョジョ』のメインテーマは「人間讃歌」。その人間の気高い意志を否定するのがディオを代表とする『ジョジョ』のヴィランたちなのである。その一方で、私はジョルノの「無駄」という決めセリフから人間を――ひいてはニートを肯定する「無駄」を読み取ってみたい。

ディアボロや資本家階級ブルジョアの立場に立つ限り、「無駄」というのは一切省かれるべきものである。とにかく求められるのは効率性とそれに伴う「結果」だけであり、ニートのように無駄な人間は、自分の利益のために「排除されるべき」か「利用されるべき」存在なのである。

だが、真実とは「無駄」の中に宿る。ここで、『ジョジョ5部』を象徴する名言を紹介しよう。

「そうだな……わたしは『結果』だけを求めてはいない。『結果』だけを求めていると人は近道をしたがるものだ………。近道した時、真実を見失うかもしれない。やる気もしだいに失せていく」 「大切なのは『真実に向かおうとする意志』だと思っている。向かおうとする意志さえあれば、たとえ今回は犯人が逃げたとしても、いつかはたどり着くだろう? 向かっているわけだからな……違うかい?」

『ジョジョの奇妙な冒険 第59巻』より

大切なのは「真実に向かおうとする意志」である。この戦いにおいて、ブチャラティ、アバッキオ、ナランチャは死んだ。だが、彼らの行動や意志は滅びはしない。結果だけを重視する立場からすれば「無駄」に見えるような行動の中に宿る「黄金の精神」。それだけがこの世で不滅なのである。

そもそも、どんな人間であれ、「結果」だけを追い求めた先に待つのは「死」である。宇宙でさえいずれは終焉を迎える。文明も、歴史も、生命も、すべてがやがて消え去るだろう。そうした「全てが無くなる」という運命の中で、なお人間を肯定できるとすれば、それは「無駄」を肯定すること以外にないのではないか?

おそらく、私がこうして『ニートマガジン』を発刊していることも「無駄」なのであろう。私が生きている間に資本主義が打倒され、労働なき世界がやってくることはないのだろう。私がなけなしの貯金を削りながら毎回赤字で『ニートマガジン』を発刊していることは、限りなく無意味に近いのだろう。

だが、それでも、どこかの誰かの手にこの冊子が届くかもしれない。かつて私がSくんの部屋で、たまたま手に取った『ジョジョ』に心を打たれたように、誰かの生き方を変えるかもしれない。私の「真実に向かおうとする意志」が、どこかで誰かに継がれていくかもしれないのだ。私はそこに人間の――そしてニートの希望を見出さずにはいられない。

それでは、最後に私なりに資本主義にこのセリフを叩きつけてお別れしよう。

「無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄ァ!」

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