蜆考 ~伝染する戦後エゴイズムの狂気~

安眠計画

ニーマガのコンセプトのひとつに「知識の共有」がある。これは二〇二五年九月現在、公式のnoteで発表されている「活動紹介」記事において三つあるコンセプトのうち、ひとつめに数えられている。本項に曰く「ニートの日記、エッセイ、活動記録、ノウハウ、低コストな娯楽、節約方法、思想や哲学、本や映画の作品評」とあり、低コストな娯楽かつ本の作品評として、本稿では梅崎春生の『蜆』について書いていきたい。青空文庫で無料公開されていて、サクッと読めてゲラゲラ笑える上に、戦後文学としての深みもある一万二千字程度の短篇であるので、是非ニート諸賢にも読んでもらいたい。

青空文庫梅崎春生『蜆』

『蜆(「しじみ」と読む)』の作者・梅崎春生は従軍経験を生かした『桜島』によって文壇デビューを果たし、「戦後派」作家として評価を得た。その短篇の性格は『桜島』の系譜といってよい「戦争もの」と「市井もの」に大別されるが、後者のなかでも敗戦後の混乱した社会を風刺的に描いた一九四〇年代後半の作品は、新たな文学を模索していた作家にとっての「創作意欲の一時高揚」(和田勉)「特殊な一季節」(戸塚麻子)と位置付けられている。そして『蜆』(初出『文学会議』一九四年一二月)はこの時期のすぐれた作品として高く評価されてきた。『蜆』は〈僕〉の一人称の語りのなかに〈男〉の語りを入れ込んだ枠物語の構造をもつ。

以下に簡単なあらすじを書いておくが、できれば一度このマガジンを閉じて、青空文庫などで読んでみてほしい。

「偽者ばかり」の世の中で、「酔いだけは偽りない」と酒を飲む〈僕〉は、「人から貰う側よりやる方になりたい」と云う〈男〉から外套を譲り受ける。しかし後日、泥酔してベンチに横臥していた〈僕〉は〈男〉に外套を剥ぎ取られるのだった。数日後に再会した〈男〉は再就職の相談のために友人を訪ねた日の一部始終を語り出す。

友人に冷たくあしらわれたことで、「一層のこと闇屋にでもなったろか」という思念が〈男〉に湧きあがる。さらに、その思念を実行しかねない「兇暴」な心の姿勢が、〈僕〉から剥ぎ取った「外套」によって与えられていることに愕然とするのであった。

〈男〉は、「贓品ぞうひん」と化した外套をまとって乗り込んだ満員電車のなかで、若い女に代わり、過剰な「義侠心」によって扉のない扉口に立った〈おっさん〉と隣り合う。カーブに差し掛かった反動で〈男〉の肩に身体を突かれた〈おっさん〉は、疾走する電車から転落してしまう。〈男〉は終点で、おっさんが残したリュックを担いで帰宅し、そのなかに詰められていた蜆を翌日売り捌いたのだと話す。

「闇屋」という新しい出発を決意し、外套を売り払うと告げる〈男〉に、〈僕〉は「も一度だけ俺に着せてくれないか」と頼み、 取れかかっていた釦を引きちぎる。〈僕〉の手元に残った釦は下宿の子どもの玩具となったが、もはや遊び飽きられたようであった。以上あらすじ終わる。

本作では善意や義侠心といった建前が、本音の善とどう折り合うのか、人間の心理の揺れ動きが克明に描写されている。戦後間もない社会を舞台に、「善」が偽りだったと自覚した時に生じる人間の内面との葛藤や、善から悪へと堕ちる瞬間の人間心理の文学性の高さから、「明るい羅生門」などと評されることがある、秀逸な私小説だ。

戦後文学研究者の渡部裕太は、先行研究がテクストを〈男〉の語りに代表させることで「エゴイズムの肯定」を主題としてきたことを指摘した。

「エゴイズムの肯定」がテクスト批評の言葉として定着したのは、『蜆』と同じ年に発表された梅崎のエッセイ「エゴイズムに就て」(一九四七年)に拠るところが大きいといえる。梅崎はその中で「今のような時代に生存を保って行くためには、法網をくぐって買出しをやらねばならないし、電車に乗るためには他人を突き飛ばさなければならない。(中略)生きて行くという事は既に、高度の狡知と他人の犠牲の上にのみ可能である」と述べ、「新しい文学の出発」を「エゴイズムの自覚と拡充から始まる」と記した。

俺はこの本を読んだはじめは〈男〉は〈僕〉に回想される通りつまらない、子供にもやがて飽きられてしまうような闇屋に堕したと読んだ。〈男〉は一時下宿の子どもの玩具となったが、もはや遊び飽きられた「お弾き」であり、いずれ電車という戦後資本主義社会から「弾き」出されるのではないか、と安直に連想した。

しかし何度か読み返すうちに、もしかすると〈おっさん〉の死を、蜆の闇売りという生業の継承によって人生を懸けて悼んでおり、〈男〉の善性は何も変わっておらず、だからこそ偽物に退屈して酔うだけの〈僕〉は、身体が半分以上車体の外に出ても笑おうと努力し、顔を歪める〈おっさん〉の過剰な義侠心を、外套という鎧を清算した〈男〉の中に見て、その六角形の善を乗客や娘のように笑わなかったのではないかと思うようになった。それは闇屋の〈おっさん〉の過剰な義侠心をキチガイのように笑い飛ばした〈男〉が、掠め取ったリュックの中身を売ってできた原資で酒を購い〈僕〉のようにただ酔うのではなく、新たな蜆の購入に充てたことに、戦後の「醜悪な平面」の中で生きていくための、資本主義リアリズムの継承のように感じたためである。〈僕〉は〈男〉が「星菫派」という揶揄に引っかかったことを既に知っているから、たかだか闇商売を始めた程度で戦後の無秩序な平面の中に自己のやり場を見つけたような男の口ぶりを笑わず、冷めた珈琲で乾杯してあげようとしたのではないか。〈おっさん〉の亡霊のように、外套や背広のポケットやズボンの折目などからぽろぽろとこぼれ出てくる蜆を「へんだな」と思いながらも味噌汁にして飲み、過剰な義侠心の「継承」と追悼は完了した、という読みは浅薄だろうか。

かつて「真面目な会社員」であった〈男〉が、闇屋になる勇気を得ていく心境の変化の過程は、枠物語の構造の聞き手と語り手が逆転するかのような迫真性と、敗戦や失職、そして生来大切にしてきた「善いことを念願せよ」という自己洗脳、「今まで赴こうと努めて来た善が、すべて偽物であった」という悲劇的な情緒を解放するカタルシスのともなう大サビだ。しかしこうした転換は、本来の語り手である〈僕〉にとっては「平凡な闇屋になっただろうと思う。会いたい気持も別段起らない。」と締めくくられる。

先に引用した通り、「新しい文学の出発」を「エゴイズムの自覚と拡充から始まる」と作者自らが述べてはいるが、それは敗戦後間もない混乱期、今まで神として崇めていた昭和帝の人間宣言によって既成の価値観が崩壊した時代においては先進的な「新しい文学の出発」であった。しかしあらゆるポップカルチャーが「自分を大切に! 自分の機嫌は自分で取ろう! 健康! セルフケア! 自分を許せるのは自分だけ!」と個人主義を称揚する現代においては、もはや手垢まみれのクリシェに過ぎない。SNSを眺めれば、画像生成AIで出力された、和服を着て日本刀を持った美少女のイラストに「日本を守ろう」みたいな文章が添えられた画像が一億枚くらい貼られている。彼ら彼女らにとっての「愛国」とは拡大した自己愛であり、これもまたエゴイズムの狂気の一形態であろう。なぜならもし愛国を謳うなら、何かの伝統芸能に入門するとか、具体的に政治家を目指すとか、もっと身近な例で言えば、先祖代々の墓をきれいにする、毎朝仏壇にお仏飯を供する、盆正月は帰省する、町内会や地域コミュニティで働く。そういうことをすべきではないか。

しかしこれは強者の理屈であって、彼ら個人主義者はなんの責務も負わずに「普通の日本人」であること、つまり日本国籍を持つ大和民族であることによって「無償の愛」が日本(あるいは天皇)から降り注いでいると本気で考えている。某党の躍進には、確かに戦後文学者の狂気の伝染を感じた。

アメリカではトランプ率いる共和党が、ドイツでは「ドイツのための選択肢(AfD)」が、インドでもヒンドゥー至上主義政党が、ロシアでも、イスラエルでも、ウクライナでも……右派ポピュリズム政党が世界各国で移民や難民への排他的な政策を掲げ、支持を広げている。もはや全世界的に〈おっさん〉は嘲笑の対象であるがゆえに、俺は〈僕〉のようにこの偽物ばかりの穢土を否定し、かつての〈男〉の如く無上菩提を証することをここに誓う。

「星菫派だな」と嗤うなら、そこで嗤っていればいい。おぼろげながら今掴めて来たのだ。俺が今まで赴こうと努めて来た善が、紛うことなき善であったことを。喜びを伴わぬ善はありはしない。それは擬態だ。悪だ。日本は敗れたんだ。こんな狭い地帯にこんな沢山の人が生きなければならない。リュックの蜆だ。満員電車だ。日本人の幸福の総量は極限されていない。無量だ。一人が幸福になれば、その量だけ誰かが不幸になっているように見えるのは凡夫だからだ。浄土に廻向されている。丁度おっさんが落ちたために残った俺達が彼の死の意味を考えたように。俺達は自分の幸福を願うより、他人の幸福を希うべきなのだ。ありもしない不幸を探すより、先ず身近な人を幸せにするのだ。俺達が人間である以上極楽に往生することが最高のことで、その他の思念は感傷なのだ。

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