ドロップアウトにも適齢期というものがある。たとえば高校生は、そうであろう。高校中退という人生のどん底から(実際はたいしてどん底とは思えないが)、突如として起業家精神を発揮し、大成功を収めるという人生は、社会に浸透した「ドロップアウトかくあるべし」というシナリオにすっぽりと収まる。あるいは、不登校や引きこもりを経験してから、半ばヤケクソで突き抜けたアウトロー人生を満喫するケース(例えば山奥ニートとして生活したり、プロの奢られ屋になったり、しょぼい起業を始めたり)も、ある意味ではドロップアウトのゴールデンコースと言えるだろう。また、同様の人生を(多くのだめライフ実践者がそうするように)大学生、もしくは社会人一年目や二年目から歩み始める場合も、さほど既定路線から外れてはいまい。
ところが、である。三十代を越え、あろうことか住宅ローンを組み、子どもを二人も持ってからドロップアウトする例を、私たちの社会はほとんど知らない。ひとたび野原ひろし的ライフスタイルを歩み始めた者は、転職や引き抜き、サラリーマン経験を活かした独立といった「ソフトドロップアウト」を除いた「ハードドロップアウト」の道を進むことはほとんどあり得ない。人生百年時代と言えども、彼らの残りの人生は消化試合であり、七十年近く続く敗戦処理であると相場が決まっているのである。
つまり、逆説的であるが次のように結論づけることができるだろう。ドロップアウトの王道(若いうちに、あるいは引きこもりニート状態から、ヤケクソの隠居生活を送ったり、一発逆転に打って出たりすること)は、ドロップアウト実践者たちが嫌悪感を表明してはばからない悪名高き「決まりきったレール」である。むしろ真のドロップアウトとは、ドロップアウトの王道からもドロップアウトした、中年サラリーマンのドロップアウトである、と。中年サラリーマンは「だめ」を生きることが許されていないのだ。それはどのような意味でも、徹底的に許されていないのだ。
さて、ここからが本題である。実は私は、ここでいうところの真のドロップアウト実践者なのである。私は二十二歳から三十二歳まで会社員であった。二十六歳で結婚し、二十八歳で第一子が生まれ、二十九歳で一軒家を購入し、三十一歳で第二子が生まれた。現代となっては珍しい、野原ひろし的ライフスタイルを体現していたのである。しかし三十二歳の時、労働に嫌気が差してドロップアウトし、そのまま「まとも書房」なる出版社を立ち上げた。出版関係の経験はゼロ。人脈もゼロ。資金も雀の涙。完全なるハードドロップアウトである。しかも、オシャレな詩集を出したり、新進気鋭の作家の小説を出すのでもない。自ら考案した「アンチワーク哲学」なる思想体系を普及し、世界から労働を廃絶するための自作小説を出版したのである。冷静に振り返ってみれば、かなりヤバい奴である。


実際、私の経歴を人に説明すると、ただただ困惑され、理解不能の狂人として扱われるケースが多い。私はこうした風潮に異議申し立てを行いたく、この文章を書いている。その根拠は三つある。
まず一つ目。そもそも、たかだか三十年かそこらを生きたくらいで、残りの人生を敗戦処理に費やすことになぜ納得しなければならないのか?という点である。子どもを十人持って、プール付きの大豪邸に住むためなら、全てを犠牲にしなければならないと理解できる。しかし、たかだか子ども二人を育て、ささやかな家を所有しているだけで人生の全てを投げうたなければならないのなら、それは社会の方が狂っていると言わざるを得ない。原始社会や封建社会ですら平均して二人以上の子どもを産んでいるし、家は万人が必要とするものだ。これだけ社会が進歩したというのに、まるで呼吸するのに使用料を取られるように、私たちはただ生きて生命を繋ぐために、労働至上主義社会に搾取されることを運命づけられている。そのことに私たちはもっと疑問を抱くべきであろう。「そうしなければ社会が成り立たないのだから仕方がない」「これだけ高度な文明を成り立たせるためには、相当の労働量が必要なので仕方がない」というプロパガンダは端的に言って嘘である。私たちはなんの意味もなく労働に人生を縛り付けられている。そこから離脱することに遅いも早いもないのだ。
続いて二つ目の論点を取り挙げたい。セックスとジェンダーが異なる概念であるように、生物学的な年齢(クロノジカルエイジ)と、社会的な年齢(ソーシャルエイジ)は異なる。例えば「新しいことを成し遂げることができるのは若者だけ」的な常識は、生物学的に運命づけられた人間の本性に根ざしているのだと人々は考えるが、実際には自己実現的な予言である。「若者は大きなことを成し遂げる可能性がある」と考える大人たちが若者にチャンスを与えた結果、実際に大きなことを成し遂げるだけであって、若者しか大博打に成功するポテンシャルがないわけではない。「もし本当にそれだけの才覚があるなら、既にもう成功しているはずだ」的な反論も、クロノジカルエイジとソーシャルエイジが一致しているのだという嘘を広めようとするプロパガンダにすぎない。たとえばかつては旧ジャニーズのアイドルは十代のうちにデビューし、二十代で引退するケースが多く、「アイドルができるのは二十代まで」といった常識はあたかも生物学的に根拠のある常識であるかのように扱われていた。しかしSMAP以降は徐々に潮目が変わり、二〇二四年に同事務所からデビューしたAぇ! groupの末澤誠也はデビュー時点で二十九歳であった。また、Snow Manも二〇二〇年デビュー時点で二十八歳だったメンバーが複数存在する。そして、今となっては同事務所には四十代のアイドルも珍しくない。アイドル適齢期が二十代という常識は社会的なフィクションであったことはもはや明らかである。
要するに、ドロップアウトして新たな生活を始めるのに(生物学的な意味での)適齢期などというものは存在しないのである。
そして三つ目の論点は、そもそもドロップアウトしないことの問題性についてである。ドロップアウトしないということは、労働に身をやつすことを意味する。労働とは「強制された苦役」や「他者より強制される不愉快な営み」などといった意味で一般的に使用される概念であるが、つまるところ、労働とは取り組んでいる本人が苦痛を感じる営みである。当事者が誰であろうが、苦痛を感じる量は最小であるべきであり、幸福を感じる量は最大であるべきだという点には万人が同意するであろう。労働はデフォルトで本人に苦痛を生じさせ、幸福を減衰させる。むろん、本人が苦痛を味わう代わりに、誰かの幸福を生み出しており、差し引きで幸福の総量が大きくなる場合であれば、労働は正当化できないこともない。ただし、既に資本主義が死に絶え、賃料や手数料のおこぼれの分配システムである封建制によって支配された現代においては、労働の大半はおこぼれに与るための儀式や、限られたパイを奪い合う軍拡競争と化しており、端的に言えばブルシット・ジョブなのである。むろん、それでもなお私たちの文化的な暮らしに欠かせないエッセンシャルな労働(例えば米をつくったり、漫画を描いたりするような)は存在している。しかし、こうした領域は労働ではない自由で自発的な貢献や遊びで代替したほうが効率的であることは、心理学や脳科学、あるいは経営学の領域においてすら、学者たちはほとんど見解を一致させている。
つまりマクロな観点から見れば、ドロップアウトせずに、労働に勤しむ合理的な理由は存在していない。もちろん、「食いっぱぐれないため」というミクロな理由で労働に勤しむことには一定の合理性はあるし、道徳的に非難する必要もないだろう。ただし、それでもなお、ドロップアウトが道徳的に推奨されるべき行為であることには疑いの余地はない。
以上の観点から、中年以降であろうが、野原ひろし的ライフスタイルを手にした者であろうが、ドロップアウトを推奨すべきであるという点に、読者は同意したものと信ずる。恐らく効率性の観点から、労働は遅かれ早かれ廃絶されるべき運命にあり、労働が廃絶された時代においては、労働あるいは労働者とはナチスの親衛隊のような存在として歴史書に記されることになるだろう。レジスタンスが現代から見れば正義であるように、ドロップアウトした人物こそが正義なのである。私たちは、何歳であろうが、自由かつ自発的に遊び、失敗し、他者から理解されない謎の営みに邁進することが可能であるし、そうすることが望ましくもある。そうすることで人々の基本的なニーズは満たされ続け、有り余る娯楽も享受することが可能になる。一方で、明らかに現代は、基本的なニーズを満たすためのエッセンシャルワークの組織化に失敗しつつあり、労働至上主義社会が持続不可能であることは言うまでもない。気候変動も進み、エッセンシャルワーカーは疲弊している。残された時間は多くない。さっさと80億人の全人類がドロップアウトすべきだ。そうしなければ人類はいつか滅亡してしまうのだから。
万国の労働者よ。ドロップアウトせよ。そうすることで、労働なき新世界が訪れるだろう。

