「働きたくない人」の生活って、いったいどんなものなのだろうか。働きたくない人はたくさんいても、当人が置かれた状況は千差万別だと思う。働きたくないけれど最低限の労働に身を投じる人もいれば、自ら働かず他者に養われる人もいるだろう。私は後者だった。
本稿では、いち無職の「架空の一日」を赤裸々に綴ろうと思う。私の生活を切り取った断片を、再構成してみる。私自身の「架空の一日」をたどるようにして、生活について詳述していく。
なぜそんなことをするのか。私自身が「外れ値」的な無職だからだと思う。私は単に心穏やかに暮らしたいわけではなく、どうすれば社会に関わり続けられるかを考えながら日々を送っている。
無職とひとくちにいえど、その実態は極めて多様であるように思う。だからこそ、いち無職の架空の一日を描くことで、その多様な在り方のひとつを示せたらと思う。
■ 住処——暮らしの基礎
朝、家族の生活音で目を覚ます。弟が会社へ行く支度をする音、母が洗濯をする音。
私が寝起きする実家の子ども部屋は、家の最北に位置する。朝陽はあまり入らず、部屋はまだ薄暗い。
眠気は強く、寝返りをうって二度寝する。
ふと、鳥の声が耳に入った。田舎で暮らしていることもあり、あたりは生き物の声で満ちている。
低く、濁ったカラスの鳴き声。ハシボソガラスだろうか。
他愛もないことを考えながら、ベッドの上でスマホをいじる。午前10時すぎ。心拍が早い。体が起床モードになるまで30分から1時間ほど待つ。
その間、今日は何をしようかと、思考を巡らせる。しばしの逡巡の末、大学図書館で読書や作業をしようと思い立つ。
私は今現在、実家で暮らしている。無職ではあるが、生活の基盤を家族に支えてもらっており、日々の生活に困難はしていない。中学の頃から不登校を経験していたり、浪人もしていたりとドロップアウト経験がそれなりにあるため、(幸い?)今更家族にとやかく言われることもない。自身が恵まれたポジションにいることを痛感する。
実家は田舎の農家で、家の周囲は自然に囲まれている。生活を送るにあたって車は必須レベルの田舎だ。家族間で自家用車をシェアすることで、生活を回している。先述したように、幸い家族仲は比較的良好である。家族との関係を友人に話したら、「組み合わせの妙」と称された程度には、奇跡的なバランスで今の生活が成り立っている。実家暮らしができるかは家族との関係にかかっていると思うので、その点自分は運が良かった。
■ 食事——「生」のエネルギー
ようやく起き上がると、時刻は11時ほど。お昼近くだ。猫にごはんをやったら、自分の朝食を用意する。
最近、料理を自分でも作るようになった。
11時という中途半端な時間だから、朝食の用意はない。前日の夕飯の残りがある日はいいが、そうでない日は自分で作ることが多い。
卵とミニトマト、とろけるチーズを取り出し、チーズトマトオムレツの調理に取り掛かる。キッチンの隅にストックしてあるミニトマトをボウルに入れ、流水でよく洗う。ミニトマトは多めに洗う。オムレツだけではなく、本日のおやつ用が必要だからだ。
私は料理が苦手だ。食に対するこだわりが薄いのだ。ひとり暮らしをしていたときは特に壊滅的で、ひどいときはインスタントスープにパンをつけて食べていた。幸い、実家に身を寄せている今は母の料理にありつけるため、食生活は安定している。
基本的に料理は苦手なのだが、自分が育てた(正しくは、私・母・祖母が家庭菜園で相互に協力しつつ育てた)野菜となると話は別だ。手間をかけた分愛着もあり、「おいしく消費したい」と思える。
ミニトマトも、自分で育てたものだ。ミニトマトは、特にお気に入りの野菜だ。洗えばすぐ食べられる。なんなら、袖で拭けば収穫してその場で食べられる。ある程度、日持ちもする。さらには、お弁当箱やタッパーに入れて持ち運びしやすい。夏の間のおやつ(間食)は基本的にミニトマトだった(もちろん、ミニトマトだけでは物足りないときは、他にも何か口にするけれど)。
おやつと言えば、スナック菓子はあまり食べない。油っぽかったり甘かったりして、どうも苦手なのだ。値段も高いし。
■ 服——使える金はあまりない
朝食を終えたら、服を着替えて外出の支度を進める。白いTシャツに、黒のパンツ。
鏡の前で、身なりを確認する。服は清潔であるけれど、襟ぐりの部分が伸びてきていた。
おしゃれはあまりしない。「しない」というより、「できない」といった表現が適切だろうか。着飾るのは比較的好きなタイプだけれど、着飾るコストが重い。すでにあるものを着る。まれに、姉と弟から着ない服をもらう。
当たり前だが、無職(≒無収入)である私にとって、自由に使えるお金はあまりない。ありがたいことにいくらか小遣いをもらっているけれど、どこか申し訳なくて必要最低限しか使わない。とは言いつつも、通信費や交際費(人と会うのは好きだ)、低コスト娯楽費などの細々とした出費がかさみがちだ。さらに、後述する科目等履修生の学費を払うとなると、財布はすっからかんになる。
今年の夏はアロハシャツを一枚買いたかったけど、セカンドストリート(チェーンの古着屋)でちょうどいいものを見つけられなかった。海遊び用の装備(ラッシュガード、マリンレギンス)に少々お金を使ってしまったこともあり、今年の夏に買ったのはユニクロの1500円の白Tシャツとセカストで見つけた400円弱の柄シャツだけ。もともと物欲がない方の人間だから、このくらいでちょうどいいのかもしれない。
■ 活動——世界を拡げる
起床後、1時間と少しで支度が終わる。本やパソコンを詰め込んだリュックを背負い、祖母に手を振って車に乗り込む。
エンジンをかけ、適当な音楽を流しながら大学へ向かう。大学へは片道1時間ほどだ。途中、山のふもとを走る。車の窓を開けると、鶏糞の匂いと共に、濃い緑の香りが鼻を突く。
大学図書館に着くと、パソコンを開いてnoteの記事作成に取りかかる。note記事といっても、「逸民シライ」としての記事ではなく、所属コミュニティが主催する大型企画の宣伝記事だ。雇われ仕事は苦手だけれど、自発的に何かしらのプロジェクトに取り組むのは楽しい。宣伝記事の作成も、私から提案したものだった。
古いパソコンの重い動作に悩まされつつも、キーボードをたたき続けた。
今年の4月から週2~3の頻度で大学に通っている。大学に通うのはいい。なんといっても、生活リズムが整う。科目等履修生制度を利用しているため、入学料や授業料を支払う必要はあるが(入学料は3万円、授業料は1科目1万5千円ほどした)、昼夜逆転と社会的孤立を防ぐための費用と考えれば、妥当なのかもしれない。
大学関連で所属しているコミュニティでの活動も増えた。コミュニティ内で小さな企画を主催したり、大型企画の実行係を担当したりとコミットメントが強い。
とはいえ、夏休み期間は週1~2くらいのペースでしか大学に行けてなかった。日中に車を運転すると、夏の陽射しで車内がどんどん熱くなるし、クーラーを使うことでガソリンがあっという間になくなるからだ。そもそも、夏は暑すぎて、7月から9月半ばまで絶妙に体調が悪かった。それこそ、常時デバフがかかっているように。
大学へ行かない代わりに、夏はサードプレイス的な場所へ顔を出すことが多かった。とあるワークショップ的な講座をきっかけに、集まりやイベントへ参加するようになった。
個人的な野望のひとつに、「家庭でも職場でもない、第三の場を拡げる」というものがある。これらの活動は、野望達成のための小さな一歩だと思っている。今は「場」に参加したり、小さく企画をする程度だけれど、ささやかな実践を積み重ねていくことは大事だろう。
また、活動範囲を広げていろんな人と会うことも大事だと思う。なぜなら、いろんな人と会うことで、「自分と合うのがどんな人なのか」がわかってくるからだ。「働かない」ことで人間関係が狭まり、社会的孤立に繋がりやすい。そのため、出かける余裕がある人は活動範囲を広げることを意識するといいのかもしれない。「理想的な人間関係を構築するためには、最低限の試行錯誤は不可欠」と痛感する今日この頃である。
■ 娯楽——何気ない日々を彩る
パソコン作業がひと段落すると、顔を上げ窓の外を見やる。陽は傾き、屋外はだいだいに染まりつつあった。もうじき夕暮れだ。
荷物を図書館内のロッカーにしまい、散歩に出かけることにした。
人通りの少ない大学構内を歩く。セミやコオロギ、キリギリスの鳴き声に包まれる。特に木々が多いエリアを歩くと、より一層虫の声が大きくなる。ぐわんぐわんと、頭蓋骨にまで響くほどの大合唱。
藍が深まってゆく世界を堪能しつつ、大学図書館へ戻る。
図書館内の雑誌コーナーに向かい、お気に入りの評論雑誌——青土社の『現代思想』——を手に取る。パラパラとページをめくり、興味の惹かれる評論はないかと目を皿にした。
田舎在住のため、自然系の娯楽にふけることが多い。
夏の間は、週1ほどの頻度で海に行っていた。何もせずとも、寄せては返す波を見ているだけで楽しい。浜辺を歩いて、流木や貝、シーグラスを集めるのもいい。水着や着替えを準備する必要はあるが、波の穏やかな日に浮き輪でぷかぷかと浮かんでいるのが一番楽しい。
もちろん、遠出しなくとも、アウトドアチェアに座ってただ夕暮れを感じるだけでも十分贅沢な気分になれる。シンプルなようで、最高にチルい。
最近は、畑仕事をすることも多い。実家が農家であることもあり、家庭菜園的な畑が家の前にある。外出しない日は、夕方ごろに畑に出て1時間から1時間半ほど作業する。野菜を収穫したり、水やりをしたり、土を耕したり。娯楽というより日課に近いけれど、日々の植物の変化を観察することはなかなか面白い。
インドア系だと、読書を楽しむことが多い。
本は主に図書館から借りて読む。図書館になかったらリクエストを出す。とはいえ、大学図書館・県立図書館・市立図書館と幅広く図書館を使うため、よほどのことがなければ本には困らない。
読書といっても、近ごろは評論や論文を読むことが多い。内容は難しめだが、本一冊より文字数が少なく、気軽に読める。ニート・フリーター系やクィア研究系など、自分の興味関心と合致する内容の論文・評論であれば、比較的内容が頭に入ってくる。ただし、大学図書館や県立図書館など、大きめの図書館にしか論文雑誌や評論雑誌がないのがネック。
■ 補足——普通にゆっくりしている日も多い
ここまで、私の架空の一日を描写してきたが、比較的アクティブに動いた場合の一日だ。別に毎日積極的に動いているわけではない。家で一日中うとうとしている日もあれば、ダラダラとXを眺めている日もある。
とはいえ、ニート系の人の中では、自分は比較的アクティブな方だと思う。体力が少なく疲れやすいし、内向的な気質もある。それでも、家にこもりきりだと気が滅入る。心理学でいう「精神運動性が高い」タイプなのかもしれない。
■ これから——働きたくない、でも生活はある
車を走らせ、帰路につく。暗い田舎道を、ヘッドライトだけが切り開いていく。
窓を少し開けると、涼しい風とカエルの声が流れ込んでくる。昼間は気づかなかった稲の匂いが、夜風に混じって車内に満ちた。
もうこんな季節か、と時の流れに感じ入る。
季節が巡るように、私も少しずつ年をとる。永遠に今は続かない。静謐な夜道を往きながら、この先どうしていこうか、思いを馳せる。
今のような生活がすっと続けばいいと思う。今のような生活とは、具体的には、「自分が無理なく、社会と関わりを持てる生活」のことだ。でも、扶養に依存して生きていくにも限界がある。親は自分より早くこの世を去るだろうし、扶養されることで扶養者との暗黙の力関係ができてしまう。
私は人と対等になりたい。もちろん、資本主義の奴隷になるのはまっぴらごめんだが、最低限生活費を自分でまかなえないと、人と共に暮らすにあたって対等になれないとは思う。人と暮らすのは楽しい。人と暮らしたい。が、そのためにも、最低限の生活力は必要だと思う今日この頃。
そんなこんなで、目下、社会に貢献しつつ生活していく道を模索している。大学に通っているのも、自分のロールモデルとなる人(体力は少なめだが、知的な面で社会貢献し生きている人)を探すためでもあった。そのうえで、サードプレイス的な実践にふれることで、家庭でも職場でもない「第三の場」の可能性を探っていけたらと思う。
なんだかんだ、社会と折り合いをつけて生きていきたいと思う。体力的に週40時間働くのは無理だ。だからといって、パート・アルバイトとして働くと非正規雇用となり、不安定になる。なんとも世知辛い。それでも、自分なりに社会と向き合っていきたい。
私は、なんだかんだ、「社会」を諦めきれてないのだと思う。私のこの往生際の悪さが、いつか思いもよらない場所へと繋がっていくことを、どこかで期待している。

