離島に流れ着いた元ニートの漂泊記

ろっさん

2025年8月
とある日本の離島、海岸を望む管理小屋

頬杖をついて海を眺めていた。

コンクリートで出来た薄暗い小屋の出口から、四角に切り抜かれた眩しい風景が広がっている。ひたすらに蒼い空と海、芝生の緑。相変わらずうだるような暑さながらも、水シャワーで服ごとずぶ濡れにした体に絶え間なく吹きつける潮風が涼しい。7月、枚方のまとも書房で会ったカレー屋の経営者がやっていたライフハックは大いに役立っている。

トイレ、炊事場、シャワー室の掃除はたった30分で終了し、あとは夕方まで人がいない海岸を監視すれば今日の仕事が終わる。海水浴場に続く道は土砂崩れで去年から閉鎖されたままで、お盆期間も終了したキャンプサイトは人の気配がない。

やることもないので図書館で借りた漫画を読み、眠くなったら椅子を並べて横たわる。もちろん毎日がこんな仕事ばかりではないが、都会で社畜をやっていた頃に比べれば全体的にゆるい雰囲気が漂っている。

離島。

20代最後の1年間はここで働きながら暮らすことにした。

離島に流れ着いた元ニートの漂泊記 写真1

2020年 某日
出社して13時間強の労働。帰宅して就寝、その繰り返し。

パソコンの画面上に表示された企画書から目を離し、煩わしい書類たちを机の引きだしに突っ込む。息の詰まる気分はとうに逃げ場を無くしていて、オフィスの窓越しに映るどんよりとした都会の街並みを見やっても気は晴れることがない。パチンコ店のネオンサインが相変わらず目にうるさい。

「労働で得た金を労働ストレスの発散に使い、また労働に身をやつすループに陥っている」という現象は社会においてあるあるらしい。僕はこの悪循環にはまる恐れを予感していたのかもしれない。労働中の身であろうと、いや労働中の身であるからこそ節約に徹した。すぐにでもこの場から抜け出すために。昼食は夕飯の残りを弁当箱に詰めて持参し、飲み物は水道水のみに徹底した。通勤代は手当が出るため問題ない。

サラリーマン時代の平日は、一日に使う金は0円が当たり前だった。1食800円のランチさえ忌避感を覚える始末だ。実家に住めるよう地元企業を選択したのも貯金に拍車をかけた。手取りの給料から月々の生活費さえ実家に納めておけば、他にかかる金はスマホの通信費くらいしかない。毎月の給料とボーナスすべて、そのほとんどを貯金にまわした。

学生のころ大好きだった自転車野宿旅は全然できていない。最後に3日以上の休みを取ったのはいつだったろうか。この生活には自由時間があまりにも無さすぎた。

常に僕の頭は目の前の業務タスクを通り越して、退職後の自由なニート生活ばかりを見つめ続けていた。とにかく仕事を辞めよう。

働きたくない、だって、こんな生活になんの価値がある?

離島に流れ着いた元ニートの漂泊記 写真2

2024年9月
インド南端の先に浮かぶ島国、スリランカの首都コロンボにて

バスから降りた僕は、都会の喧騒と突き刺す日光から逃げるように裏路地を歩いていた。

特に予定もなく、いつもの宿の方向へぶらついてゆく。近くにあった小さな果物屋にふらっと入り、品物を眺めてみた。吊るされたバナナ、無造作に積まれたヤシの実、ずらずらと並べられた南国の果物たち……。うだる空気に包まれた色鮮やかなそれらは、薄暗い日陰でむわっとした甘い香りを放っている。その中からマンゴーとマンゴスチンをつまみ上げて店のおじさんに渡す。レジ横の錆びた秤に乗せられたその果物は、1個が100~200円相当だ。日本だと何千円になるだろうか。

「ィストゥーティ(ありがとう)!」

なるたけ満面の笑みで金銭と交換する。果物屋のおじさんもつられるように微笑んでくれた。

なぜスリランカなのか?特にこれといった理由はない。

大阪のスパイスカレー屋(いわゆる店でしか出せない味)が千数百円と高額なものばかりでうんざりしたからかもしれない。こっちでは一食200円だ。

インド担当に配属されるのが嫌で貿易会社を退職した友人が、スリランカは良いところだと言ったからかもしれない。

ただ単純に、パスポートの期限が切れる前に海外へ行ってみたくなっただけかもしれない。最後に海外へ行ったのは6年前の台湾自転車1周旅行以来だ。島国繋がりで収まりも良い。

それとも、まだかろうじて若いと思える肉体と、ニートであるがゆえの自由な時期を可能なかぎり味わいたい……そういう思いが変な方向に作用しただけかもしれない。

もちろん、たった10日間の旅行でその国のことがわかるなどとは思っていない。しかし、いま目の前に広がっている事象(異国の空気、人々の表情、ご飯の味など)それ自体が偽りになるわけでもない。僕は、久々の海外をただ全力で楽しみ、味わうことにした。

がらんとした裏道に入ると、アスファルトの舗装は白い砂の道になる。果物が入ったビニール袋をぶら下げ、ヤシの葉から届く木漏れ日に照らされた地面を進む。両脇はコンクリート塀に囲まれた簡素な家が立ち並んでいる。

ちょうど通り過ぎる誰かの家の玄関先に、住人であるだろうお婆さんが立っていた。特になんの目的もなく外を眺めている様子で、この国ではそんな人が珍しくなかった。

「アユボワン(こんにちは)!」

なるたけ満面の笑みで挨拶する。当然、この地では僕が外国人だ。インド系の風貌ばかりの国じゃアジア人はとても目立つ。必ずと言っていいほど物珍しそうに凝視されるので、その目線を真っ向から見つめ返して全員に挨拶することにした。

「オゥ、アユボワン」

しゃがれた声でお婆さんが挨拶を返してくれた。思わず心の中でガッツポーズをしてしまう。英語がほとんど喋れない僕は、それならばと現地語であるシンハラ語を10単語ほど暗記し、ジェスチャーと笑顔で無理やりコミュニケーションを取ることにした。

さっきのお婆さんがシンハラ語で返してくれたのも嬉しい。僕が単なる金を落としてくれる観光客として見られていたら「ハロー」と返ってくるはずだからだ。

「××××××××」

背後から何か言葉を投げかけられ、えっと振り向いた。さっき通り過ぎたお婆さんだ。深くしわが刻まれた顔はなんとなくほころんでいるように見える。

「えっと、なんでしょうか……?」

「××××××××」

駄目だ、わからない。ここでお婆さんは僕が大したシンハラ語話者でないと察したのだろう。ゆっくりと含むように喋った。

「You are good person.」

なんてことはない。このお婆さんはただ僕に「あんた良いやつだね」と言いたかったのだ。ホッとすると同時に、温かい気持ちになった。ただ挨拶をしただけなのに、人格まで褒めてくれるこのお婆さんこそ良い人だろう。

「ィストゥーティ!」

良い気分のまま宿に帰る。冷蔵庫でキンキンに冷やしたマンゴーとマンゴスチンは最高に美味かった。

働きたくない、働いていたらこんな出会いもなかったろうから。

離島に流れ着いた元ニートの漂泊記 写真3

2025年1月
日本のどこかにある雪深い田舎、そこのスキー場にて

ガゴォン……ブロロロ……

朝4時くらいだろうか。外から聞こえる除雪車の重々しい駆動音で浅く目が覚める。雪が多く積もった日は決まって社長か重役のおじさんが早くから雪をどかしている。

2段ベッドとエアコンがあるだけのプレハブ個室寮は狭苦しいが、氷点下が当たり前の雪山において暖房が使い放題というのが非常に助かる。寒いのが苦手なたちだが、あえてスキー場に身を移した先には暖房設備が整った環境が待っていた。

コンコン。

「飯やでぇ」

朝6時、僕の部屋ドアにノックがかかる。ドアを開けてすぐの廊下にちゃぶ台が置いてあって、そこがもう共有リビングのような扱いになっていた。職場を共にする先輩方はとっくに朝食に手をつけており、ありがたいことに用意されていた僕の分を食べ始める。ご飯とインスタント味噌汁、おかずは目玉焼きと千切りキャベツなど簡単なものだ。

出勤は朝8時前なのでこんなに早起きしなくてもいいのだが、先輩方は大体が50~60代であり、伴って生活サイクルも朝方に寄っていった。

共有リビング扱いされている廊下には、テレビ・冷蔵庫・電子レンジ・洗濯機といった一通りの家電が揃っていた。ある人はテレビを眺め、ある人は部屋に戻りくつろいでいる。自室にとっておいたキャンディをデザート代わりに口へ放り込む。次に町のスーパーへ買い出しに行けるのは来週だろうか。お菓子を消費するペースを落とさなくては。

ごろごろしているうちに出勤時間になったので分厚い制服と防寒長靴に着替え、皆ぞろぞろと隣接するゲレンデへ歩いていく。今日の積雪は約30㎝くらいだろうか。柔らかい雪が山の上まですっぽりと覆っており、日光を浴びて視界のどこまでも白く塗りつぶしてくる。キンとした空気に鼻腔を冷やしながら、たった1分の通勤時間をもって事務所のタイムカードを押す。出稼ぎでやってきた台湾人とベトナム人の出勤だけは毎回時間ギリギリだ。僕もそうしたいものだが…。

リゾートバイト。略してリゾバ。世間ではそう言われている労働形態を今年の冬もやっている。気づいたことが二つ、①リゾバと言っても職場によって特性が大きく違うこと ②僕がいる職場の特性は、ずいぶん年寄りが多いということだ。

まっさらなゲレンデに最初の足跡をつけながら、各々が振り分けられたリフト小屋に向かう。木造の簡素な小屋に年季の入った大きな機械が置いてあり、軽く点検を済ませて電源を入れる。

後の作業は単純なもので、リフトの座席部分に積もった雪をどかす。やってきたスキー客、スノボ客がすっころんでリフトに轢かれないよう見守ってやるくらいだ。

「ここのスキー場は二流どころか三流じゃでな。やけん大した設備を期待しちゃあかんぞぉ」

寮で寝食を共にしている先輩が笑い飛ばす。60歳をとっくに過ぎたこのじいさんは、お金に困っている風でもない。

ほか会社の重役に位置するおじさんも、春からはいつもどおり米農家に戻るらしい。

僕がいるスキー場はどこか田舎くさい。いや実際に田舎なので仕方ないのだが、昭和の古い雰囲気が染みついている感じがする。だがそれが敷居を低くしてくれている感じもあって悪くない。北海道の一流リゾートだとこうもゆるくなかっただろう。リゾバという横文字がまとう、若者だらけの騒がしい雰囲気でもないのが良い。

昼12時、食事の時間が近づいてきた。食堂に向かう。従業員用の食券を提出すれば300円で定食が食べられる。ご飯が盛り放題なのでここぞとばかりに大盛にしておく。今日のおかずは焼き魚とコロッケだった。充分においしいのだが、ときたまカツカレーなど大当たりが出てくるのに比べればこれは地味な部類だ。

昼食をとってしまえば夕方5時まで消化試合モードに入る。世間が連休中だとリフト前に行列ができるほど混雑し、目が回るほどの忙しさなのだが、平日になってしまえば楽なものだった。

小屋の中には灯油ストーブがあり、台湾人の従業員と15分交代で見張り・休憩を繰り返す。大きな声では言えないが暇なときはひたすらスマホを触っている。ニーマガVol.3もこのスキー場の勤務時間中に書き上げたといっても過言ではない。

夕方5時。リフトの電源を落とす。同班のおじさんと最近パチンコは勝っているのか、隣の台湾人と今日は客が何人コケてリフトを止めたなどとバカ話をしながらさっさと帰る。あとは寮に帰って日本人メンバーの皆で夕飯を食べ、スキー場に隣接する温泉施設で露天風呂とサウナを堪能するだけだ。夕焼けから日没にかけてピンクから暗い青へと色を変えていくゲレンデに、最近流行りの邦楽がBGMとして響いていた。

「シンチャオ(こんにちは)!」

「シンチャーオ!」

帰ってきた寮の共有スペースでは出稼ぎのベトナム人たちが早くも夕飯の準備に取り掛かっていた。どこから仕入れたのか、パウチ詰めにされていた輸入品のアヒルを出刃包丁でバラしていく。

彼らもまた南国の気風をまとっていて、陽気であるがゆえの適当さを兼ね備えている。ベトナム語は難しく、ありがとうと美味しいくらいしか覚えられなかったのだが、去年行ったホーチミンの写真を見せたら懐かしい風景を楽しんでいるようだった。

スキー場という職場上、雪が溶ける春になってしまえば自動的に労働期間が終わる。退職とは往々にして自分から辞める意図を伝え、その理由を説明せねばならないものだから、自然の移ろいにより職場を離れられるこのシステムが個人的に好きだった。労働期間も3ヶ月という長くも短くもない絶妙なラインで、週6労働がいくらしんどくなっても終わりが見えている分だけ気が楽だった。社畜だったころの40数年間続く労働に比べればなんてことはない。

金を使う娯楽施設もない雪山なので、多いときは20万以上もの手取り金を貯蓄していた。

働きたくない、けど終わりが見えている分なんとかなった。

離島に流れ着いた元ニートの漂泊記 写真4

そういえば、沢木耕太郎『深夜特急』のどこかに印象深いシーンがあったのを思い出す。

ユーラシア大陸を路線バスの乗り継ぎだけで横断する彼は、そのバスの旅路の道中で様々な人に話しかけられる。地元の人間、彼と同様のバックパッカー……。あるシーンでは小さな子供を含む家族連れの旅人たちと乗り合わせる。気になったのはその子供だった。いくら他人に話しかけられても反応しない、窓に流れる異国の景色にさえ一切の興味も向けない。そんな好奇心の摩耗しきった、無関心の目をしていたという。

正直僕はぞっとした。「もしかしたら、おれはほんの数%でもこの子供に近づいてしまったんじゃないか?」そんな考えが頭をよぎった。

この子供だって、最初こそは見るものすべてが未知の産物で、日々が驚きや感動で彩られていたはずだ。だが、それが毎日のように繰り返されたらどうなるだろう? 疲弊するし飽きもする。非日常が日常に逆転し、見慣れさせられてしまった異国に対する好奇心は完全に摩耗する。

少なくとも、大好きな夏の北海道を自転車で、しかもテント無しの野宿旅で走り回る旅に新鮮さは感じにくくなってしまった。僕は旅に慣れてしまったのだ。

旅慣れて余裕があると言えばいいことかもしれない。だが、実際にやっている本人としては「2回目に見る映画」の感覚にそっくりなのだ。旅をしても今日この1日のオチが見える。どこまで走れるか、どこに行けば安心して野宿できるか、すべて経験と体力が保証してしまう。

もちろん自転車旅が嫌いになったわけじゃない。特に夏の北海道は本当に美しい。東北・信州・関西・山陰山陽・四国・九州・沖縄……どれを走っても楽しかったが、一番はやはり北海道だろう。だからこそ、そんな北海道に無関心な目を向けてしまう可能性を持つのが怖かった。

舞台を海外に変え、さらなる刺激を追い求めるのはどうか? けれども、その道はまるで青天井のようできりがないものに見えた。それに海外を放浪しまくった先に僕を待ち受ける結末は、あの深夜特急に書かれていた好奇心の摩耗した目なのだろう。

一度、旅から離れてみるのもいいかもしれない。

そうだ、20代もあと1年ちょっとで終わってしまう。2024年まではめいっぱい旅をすることにして、昔からやってみたかった犬との生活を30代から始めてみよう。犬を飼うことで、旅ばかりだった20代に自分なりの区切りを打てるんじゃないか?そんなことも考えるようになった。

それと並行して20代の最後を過ごす場所についても見当がついていた。とある離島の移住体験企画。期間は1年間、家賃0円のシェアハウスと仕事が用意されている。応募資格は29歳まで、おまけに僕の友人2人が既にその島にいるときた。

来年29歳になる僕はさして迷わず応募することにした。

社畜生活という日常に縛られ、放浪する非日常に憧れていた僕は、皮肉なことに、放浪という日常から定住という非日常へ望んで移動した(おそらくきっと、これを繰り返すのだろう)。

離島に流れ着いた元ニートの漂泊記 写真5

2025年9月
ふたたびとある日本の離島にて

5枚ほど連なったガラス戸は両脇へ開け放たれ、職場を出てすぐ外を横切る道路の先は海が広がっている。そろそろ昼休みが終わる頃合いだろうか。出来かけの木造ヨットを尻目に、僕はパイプ椅子に座ってぼんやり海を眺めていた。波音ぐらいしかない静寂の合間に、いくつかの車や役場から配布されている自転車に跨った若者たちが通り過ぎていく。

変わった島だな、と思う。日本の様々な箇所を旅してきたが、田舎に共通するのは圧倒的な若者不足だ。しかしこの島はそんな雰囲気がない。島のどこに行っても20代の若者を見かけるのだ(一応自分もその一員だが)。主たる港などまるで大学のキャンパスを思い起こさせるようで、誠に勝手ながら離島の持つ静かな印象を好んでいた僕にとっては少しがっかりするほどだった。

だが悪いことばかりではない。自治体の政策によりひっきりなしに移住者がやってくるこの島では、見知らぬ我々に対しても古くから住む地元の人は慣れた様子で接してくれる。

移住体験としてやってきた僕ら若者たちは、島の住人たちと同様の古民家に住むことになる。大体4人1組のシェアハウス生活で、まるでスキー場の寮のように一通りの家電が揃っている。

自治体のどこにそんなお金があるのか知らないが、このシェアハウスは家賃・水道・光熱費・通信費が全て無料だ。食費と雑費を差し引けば、給料のほとんどを貯金にまわすことができる。

だがその食費について困ったのはさすが離島というところか、あらゆる物価が高い。輸送費がつくのは納得できるが、2Lコーラが400円というのには絶句した。肉は全て冷凍品、野菜も本土からやってきたものは鮮度が良いとは言えない。スーパーはおろかコンビニもない小さな離島では致し方ないことなのかもしれないが。

しかしせっかくこんな離島にやってきたのだ、ここならではの楽しみを味わい尽くしてやろう。そう考えた僕はゆるふわ無職氏に相談し、わざわざ釣り具一式を取りそろえた。島ということは生活の場は海に囲まれているわけで、それすなわち食料のうち魚だけは苦労することが無いと踏んでのことだった(この読みは大当たりし、4月の末にかけてイカの大群を何十匹と釣り上げることになった)。

のんきに釣りだけして暮らしていければ楽なのだが、この移住体験企画は週5日の労働も義務としてついてくる。

100人以上の応募者たちは様々な職場に振り分けられていった。

役場勤めの者、地元の農業に従事する者、宿泊施設や飲食店、小中学校の手伝いを任される者……挙げていればきりがない。

ちなみに給料の額はどの仕事に就こうが一定で、眼の光を失っていない20代前半の若者たちはそんなことに気づいていないかのように仕事に打ち込んでいた。

仕事は楽しいか?幸運なことに、僕は楽しんでやれている方だと思う。木造のヨット制作や漁船修理など、小中学校で好きだった図工の授業をそのままレベル99まで格上げしたような感じだ。

既に組みあがった木造ヨットにエポキシ剤を塗っていく。乾燥させてはまた塗ってを繰り返していくと、木の板はりんご飴のような光沢を帯びてゆく。これが中々興味深い。

山奥に暮らしたこともあって、次は海に関わる仕事を希望したのは正解だった。自転車の次はヨットに乗ることになるとまでは想像もつかなかったけれど。

「エポキシの調子はどうだ?」

職場に戻ってきた師匠に問われる。

「バウ(船首)からトランサム(船尾)にかけて三度目の塗装が終わったよ」

「グッド。午後は良い風が吹いている。セーリングするかい?」

Sounds good !(そりゃいいな!) 二つ返事で了承する。塗装作業というものは乾燥待ちになると、他に仕事がない以上今日はもう何もやることがない。このまま昼過ぎに終了するだろう。相変わらず空の色を反射し続けている波間は、次第にその色をオレンジへと変えていった。

シェアハウスに帰宅したら、シャワーを浴びて夕飯の支度にとりかかる。前に漁港で水揚げのアルバイトをしたとき、一抱え程もする魚を貰っている。この島に来てから、サバを雑に竜田揚げにすると美味いことに気づいた。

シェアメイトの住人はみな年下で(自分が応募資格の年齢上限に達しているから仕方ないのだが)、各々が大学を休学するか仕事を退職してこの島にやってきている。彼らは後片付けをしないのが玉に瑕だが、その辺はシェアハウスあるあるなのだろう。

個人的には、シェアハウスの管理人が自治体であるというのが嬉しかった。公的機関というだけである程度の安全が保証される。

夜9時。自室の布団で適当にインターネットサーフィンをする。外からは田舎らしく鈴虫の鳴き声がひっきりなしに聞こえてくる。明日は出勤前に1時間ほど民宿の清掃バイトがあるので少し早めに寝た方が良いだろう。民宿の女将を務めるおばあちゃんは何故だかわからないが、仕事一回につき二千円もの高時給を支払ってくれる。特に強制されているわけではないが、一番身を入れてやっている仕事はこれなのだ。

この島に来てから、元ニートとは思えないほどまっとうな暮らしをしている。週5の労働をこなし、アルバイトにも手を出している。いったいどうしたというのだろうか。

単に人に恵まれただけなのかもしれない。都会でブルシット・ジョブに手を染めていた時に比べれば、商売っ気の少ない離島は有意義さを見失わせる力が幾分弱いようだ。

あるいは、滞在期間がたった1年と決まっているからなのかもしれない。終わりが見えているからこそ、むしろ詰め込むように暮らしの密度を高めている。この辺は無駄に体力へステータスを振っていて良かったと思えるところだ。

いま自分は生活をしているのだろうか。それとも旅の最中なのだろうか。少なくともこの離島が終の棲家であるという印象はまるでない。骨をうずめるほどの覚悟がないだけと言えばそれまでだし、所詮は1年間で終わってしまう移住体験だからと思えばさもありなんだ。

しかしそれでも、自分が住んだ土地(今回はこの離島)に愛着を持つというのは悪いことではないと思う。別に陳腐な道徳論を振りかざしたいわけではない。ただ、世界のある一点に己の生活拠点を残した事実は、特異点を刻んだことと同義であると思えてならないからだ(この辺の理論についてはニーマガVol.3を参照してほしい)。

そろそろ寝よう。電灯のひもを引っ張って部屋の明かりを消す。カーテンの隙間から覗く離島の月は、ニート時代、いつかの野宿旅で眺めたどこかの月と同じように優しく光っていた。

働きたくない、でも僕には漂泊がある。

離島に流れ着いた元ニートの漂泊記 写真6
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