転居抒情

下宿人

「この辺は坂が多いんです。自転車に乗っている人はあまり見ないですね」

内見先のアパートへの道を運転しながら不動産屋の女性が話す。車内はクーラーが効いているが、窓からの日光で腕がちりちりする。流れていく町並みを見ながら、もうすぐ無職か、と思った。実感が湧かなかった。

仕事を辞めるまであと一か月。最後の出勤が終わり、あとは有給休暇を消化するだけになっていた。無職になるにあたって、私は引越し先を探していた。

仕事を辞めることを決めたときは、どこか遠い場所に住もうと思っていた。安い土地と家を買って住もうかと思ったこともあった。しかし結局、今住んでいる東京近辺で賃貸物件を探すことにした。

手数をかけてなにかをするのがとても億劫になっていたのもあるが、東京近辺でも安く住めそうな物件が意外とあったからだ。

私は不動産屋に連絡し、翌日の物件内見を予約をした。

たいしたことはしていないのにひどく疲れていた。

仕事を辞めようと思った明確なきっかけというのはなかったと思う。日々、面倒ごとや仕事の押し付け合い、腹が立つことなどがあり、辞めたいと思うことはあったが、本気で辞めようと思ったことはなかった。

しかしある日の昼休み。パンを職場の近くの公園で食べているときに、仕事を辞めてしまおうと強く思った。座っているベンチのそばにいたスズメに、袋に残っていたパンくずを与え、立ち上がって職場に向かって歩き出した。

何かがふわりと自分に衝動を与えたとしかいいようがない。

職場に戻った後、仕事を辞めることを上司に伝えた。

仕事に就くのはあんなに大変だったのに、辞めるのは容易く、拍子抜けした。

予約した不動産屋は駅から少し離れた、細いビルの四階にあった。

狭いエレベータに乗り込み、四階のボタンを押す。エレベータは疲れているようで、のろのろと私を四階まで運ぶ。

エレベータを降り、不動産屋のドアを開ける。カランカランと安っぽいベルの音がした。いらっしゃいませ、と女性がこちらにやって来る。私は予約していた旨を告げる。客は私以外誰もいない。女性が席の一つに案内してくれて、座って待つように言った。印刷して持ってきた物件資料を眺めて待つ。

店の奥の方のデスクでは、恰幅の良い中年男性が電話をしていた。店長だろうか。壁際のホワイトボードには四枚の名前が書かれた札が貼り付けてあった。二つの札は赤色で、横には「外出」と書かれていた。

案内してくれた先ほどの女性がペットボトルのお茶を手に戻ってきた。名刺をもらった。中村さんという。栗色の短い髪と小柄な体格で、リスのような人だなと思った。

私は事前に調べておいた物件資料を示しつつ、中村さんに物件の条件を話した。

風呂、トイレ、エアコンが付いている。防音がしっかりしている。室内かベランダに洗濯機置き場があるとうれしい。そしてとにかく家賃が安いこと。

私が事前に探した物件の他に良さそうな物件がないか、中村さんに調べてもらう。いくつか物件情報を見せてもらうが、どれもピンとこなかった。そして家賃が想定より高すぎた。

「事前に調べていただいた物件より家賃が安いところは、この辺だとなかなかなさそうです」

「そうですか」インターネットに掲載されていない安い物件情報が不動産屋ならあるかと思っていたのだが、当てが外れた。結局事前に探しておいた三件の物件の内見希望を告げる。

「それじゃあ、物件の募集情報を確認しますね」中村さんが電話をかけ始めた。中村さんが電話をしている間、私はペットボトルの緑茶を一口飲んだ。店長と思しき男性が非常階段で煙草を吸っているのが見えた。

中村さんが確認した結果、今も募集しているのは一件だけだった。物件資料を印刷したのは数日前だが、既に二件は契約が決まってしまったらしい。残った一件に内見に行くことになった。中村さんは、車の鍵を棚から取り、ホワイトボードの「中村」の札を裏返し、「内見」と書いた。整った字だと思った。

内見に行く物件は築四十年弱で軽量鉄骨造り。鈍行列車しか停まらない駅から徒歩十五分。物件周辺には店はなく、買い物は駅の方まで出てくる必要があった。家賃は二万七千円、管理費は二千円で合計二万九千円。インターネット無料。図面のみ掲載されていて、部屋の写真は確認できていないが、相場と比較すると破格の安さだった。

唸り声を上げるエレベータで一階に降り、ビルの外に出て中村さんの後に続く。駐車場まで数分歩いただけだが、汗が滲んだ。銀の普通車。私は後部座席に乗り込む。

「見に行く物件の近く、昔、住んでいたんですよ」中村さんは、物件に向かう途中、ぽつぽつと話し始めた。

「行っていた大学があの辺りにあって、四年間アパートを借りて住んでいました。初めての一人暮らしだったので不安もありましたが、とても楽しかったですね」

確かに内見先の最寄り駅のそばに大学があることは、地図で見て知っていた。

「借りたアパートは坂の上にあって、引っ越した後、めちゃくちゃ後悔しました。四十五度くらいありそうな急勾配の坂が延々続くんですよ」

「へえ、そうなんですね」私は気の抜けた相槌を打つ。四十五度の斜面は歩いて登れないのではないかと思ったが、もう次の話題に映っていた。

たしかに坂が多い町だった。平坦な道を走っている時間よりアップダウンのある道を走っている時間の方が長かったように思う。

安いアパートが林立している地域だろうと思っていたが、アパートはあまりなく、一軒家が多かった。中村さんの話では、学生向けのアパートが多いのは駅の反対側で、こちら側は昔からこの地域に住んでいる人が多いらしいとのことだった。

物件の前まで車で行くことができないようで、近くの路上に駐車した。車を降りて、丸い模様の入ったコンクリートの坂を下っていくと、途中から舗装はなくなり、土の道になった。雨が降ったらぬかるみになりそうだなと思った。

看板が見えた。木の看板には「〇〇荘」と白いペンキで書いてあった。とりあえず建物表示がないと困るから書いた、としか思えない乱雑な字だった。

建物も見えてきた。綺麗な建物とは言えないが、想像していたよりもしっかりしていそうなアパートだった。二階建ての物件で、全部で八部屋あった。

アパートのすぐ隣に大きな日本家屋の一軒家があった。大家さんが住んでいるらしい。玄関前には野菜が入った籠が置いてあった。薪を積んだ簡素な棚が目を引いた。この辺りで焚火はできるのだろうか。

内見する部屋は二階の角部屋である。一階のドアポストにはすべてガムテープが貼られていた。入居者は少ないようだ。

カンカンと足音を立てて、仮設住宅にありそうな階段を登る。もちろんエレベータなんて付いていない。

「チャイムこわれてます。ノックで!!」と書いた紙が貼ってある部屋の隣が内見する部屋だった。癖のある住人の気配を感じたが、中村さんによると現在は空き部屋であるらしい。

中村さんが部屋のドアの鍵を開ける。ドアは建付けが悪いのか、少し引っかかるようだった。中村さんが力を入れて引くと、ドアは開いた。衝撃でヤモリが二匹落ちてきた。中村さんの小さな悲鳴。ヤモリはよたよたと玄関の暗がりへ消えていった。

玄関先はチラシで埋め尽くされていた。下駄箱はない。スリッパを履いて室内に入っていく。角部屋で二面採光なので思いのほか明るい。フローリングの床には乾燥した虫の死骸がいくつか転がっていた。エアコンは日焼けしていた。生産年を確認すると、日焼けした見た目に反して数年しか経っていなかった。クーラーをつけてみると清浄な冷たい風が出てきた。

照明は、昭和の時代から使っていそうな年季の入った釣り下げタイプの電灯だった。電灯からは床まで届く紐が垂れ下がっていて、紐の先端にはくすんだ色をしたスヌーピーのフィギュアがぶらさがっていた。

窓を開けてベランダに出ると、人が二人横になれるくらいの幅のスペースに洗濯機置き場があった。そして、ところどころ錆びている物干しざおが架かっていた。

ベランダから見えるのは木々ばかりだった。一番近くの樹の枝には黒い実がぶらさがっていた。鳥の鳴き声が小さく聞こえる。樹々の向こうにはマンションが小さく見えた。眺望がよいとは言えないが、周りに他の建物がないのは気に入った。

ベランダから室内に戻る。物入れは襖だった。元々和室だったのだろう、上下二段に分かれている。さして荷物がない私には十分すぎるスペースだった。ここに荷物はほとんど収まりそうだ。

壁を叩いてみる。響く感触はなく、防音性は高そうだ。

水回りの確認のために玄関の方に戻り、浴室のドアを開けると三点式のユニットバス。浴室は最近リフォームをしたとのことで、ここだけ場違いに白く輝いていた。シャワーカーテンはないので、自分で設置した方がよさそうだ。

台所は狭い。ガスコンロを置くと調理スペースはかなり狭くなりそうだ。

玄関ドアには郵便受けがなかった。入居するときに郵便受けを付けてくれるのか中村さんに確認したが、現状渡しとのことだった。

「どうですか。いったん戻って、他の物件を見に行きますか」

「ここにします」私は即決した。

風雨をしのげて、インフラが整備されている。そして静かに暮らせそうな物件。今の私には十分すぎる住居だと思った。

中村さんは少し驚いている様子だった。

不動産屋に戻って、契約手続きと必要書類の説明を受けることになった。中村さんと私は部屋から出た。ドアが閉められる直前、部屋の床を小さな何かが横切った気がした。

不動産屋に戻るため、駐車しておいた車に乗った。内見していた時間はそんなに長くなかったと思うが、車内には既に熱気がこもっていた。中村さんはエンジンを掛け、クーラーの風量を上げる。

「本当に他の物件、見なくていいんですか?」中村さんは心配そうに言う。

「はい、あの物件でお願いします」

不動産屋に到着し、契約に必要な書類を記入した。入居審査の書類の職業欄は「会社員」と記入し、もうすぐ辞める勤務先を書いておいた。まもなく無職になるが、一応まだ会社員であるし、嘘ではない。

審査結果は一週間くらいで出るとのことだった。私は中村さんに礼を言って、不動産屋を出た。寄り道せずに帰宅した。

三日後、審査が問題なく通ったと連絡があった。

入居の契約手続き、退去の連絡、引越しの準備、ガスの開栓やインターネット工事の立会日の連絡などをしていたら、あっという間に引越し当日になった。

七月下旬。荷物の搬出が終わり、退去の立ち合いを早々に済ませた。自分のものがなくなると、昨日まで住んでいた部屋なのに、よそよそしく感じた。当面使うものを詰め込んだリュックとエレキベースの入ったハードケースを持って旧住居を後にした。

地下鉄で新宿に向かい、小田急線に乗り換えた。電車の中では大学生と思しき集団が旅行で行きたい場所について話をしていた。

鍵を受け取るために不動産屋に寄った。アパートの最寄り駅は、不動産屋がある駅から一駅離れている。歩ける距離だが、ハードケースが手に食い込んで痛いので電車を使った。

アパートの最寄り駅に着いた。駅からアパートまで歩くのは初めてだったので、駅の出口を間違えて余計な遠回りをしてしまった。

しばらくは平坦な道であったが、すぐに坂道になった。背中の汗がティーシャツに染みていくのを感じた。坂の途中にコーヒー豆屋があった。生活が落ち着いたら行ってみようと思った。

アパートの看板が見えてきたときは「やっと着いた」と独り言が出た。

階段を登って、二階の私の部屋へ向かう。鍵を回して、少し引っかかりのあるドアを開ける。ハウスクリーニングをしてもらったので、部屋の中は綺麗になっていた。

荷物をとりあえず部屋に置き、水道栓を開けようと外に出る。しかし、それらしいものが見つからない。内見のときに水道栓の場所を確認しそびれていたが、行けば分かるだろうと思い今日まで確認していなかった。アパートの周りは藪になっているので、蚊がいるのだろう。腕と首筋が痒い。

どうしたものかと思ったが、大家さんの家がすぐ隣にあるのを思い出し、引越しの挨拶も兼ねて訪ねてみることにした。

大家さんの家の玄関は開けっ放しにしてあった。子供用の木製の小さな椅子にはスケッチブックが立てかけてあって、「配達の方へ 荷物はここに」と太い黒のマジックで書いてあった。

インターホンを押しても誰も出てこない。「すみませーん」と玄関の奥に向かって声を出す。掠れた、小さな声しかでなかった。諦めて自分で探そうかと思っていたら、バイクがゆっくりこちらに向かってきて、私の近くで停まった。バイクから降りてきた人が大家さんだった。年齢は六十歳くらいだろうか。日焼けで赤銅色になった肌のせいで若く見える。七十代かもしれない。ヘルメットを外すと、きれいな禿頭だった。

私は自己紹介し、水道の栓の位置を尋ねた。水道の栓は、アパート前に敷いてある敷板の下に隠されていた。雨が降るとアパートの周辺の地面がぬかるむため、敷板が敷いてあるとのことだった。探しても見つからないわけだ。私は水道栓を捻って開栓し、敷板を戻した。

大家さんはしきりに頭を下げて「やっぱり、わかりにくいよねえ、ごめんねえ」と言い、「お詫びというわけでもないけど」と曲がったきゅうりを私にくれた。さっき畑で採ってきたという。緑色の表面に触るとチクチクした。

部屋に戻り、キッチンの水道の蛇口を捻る。最初、咳き込むような音を立てたが、すぐにきれいな水が出るようになった。さっそくきゅうりを一本洗って、そのままかじった。青い匂い。昼飯を食べていなかったこともあり、とても美味く感じた。

喉が渇いた。そういえば朝にコーヒーを飲んだきりだった。冷たいものが飲みたい。アパートの敷地内に自販機があったのを思い出した。リュックから引っ張り出したサンダルをつっかけ、外にでる。日中なのに薄暗いアパートの敷地の端に自販機は設置されていた。商品はどれも八十円だった。

小銭を投入してコーラを買う。小さく唸るような音を立ててから、コーラが落ちてきた。コーラの缶はキンキンに冷えていた。部屋に戻って、缶の栓を開ける。体に沁みわたる。自販機で冷やされたコーラは、なぜこんなに美味いのだろうか。なにか特殊な加工がされているのではないかと疑ってしまう。あっという間にコーラを飲み終え、缶を洗って潰した。さて、休憩終わり。そう自分に言い聞かせて、私は役所に向かった。

役所で転入の手続きをして、アパートに帰ってガスの開栓の立ち合いなどをしていたら、夕方になっていた。

夕飯と明日の朝飯を買いに駅前のスーパーに行くことにした。聞いたことのないチェーンのスーパーだった。ローカルチェーンのスーパーに行くのは楽しい。謎の果物が売っていたり、見たことのない菓子パンが売っていたり。住んでしまうと当たり前になってしまうのだろうけれども。

レンコンで肉をはさんだ揚げ物、コロッケ、たこ焼き、食パン、はちみつ、ウィスキーなどを購入した。無職になったら酒は止めようかと思っていたが、習慣は簡単に変えられない。

アパートに帰り着く頃にはうっすら暗くなってきていた。

窓を開けると、蝙蝠らしきものが飛んでいるのが見えた。

シャワーを浴びようと浴室ドアを開けると、ヤモリが落ちてきた。ヤモリは慌てて去っていった。お邪魔しますよ。

シャワーを浴びた。水が景気よく飛び散った。シャワーカーテンを早く取り付けないといけないなと思った。

シャワーを浴びてすっきりしたので、フローリングの床にスーパーで買ってきた惣菜を並べる。リュックから薄いマットレスを出して、座布団代わりにした。惣菜を食べ、ウィスキーを水道水で割ってちびりちびり飲んだ。

シャワーを浴びる前に遭遇したヤモリだろうか、壁に張り付いて虫を食べていた。ヤモリとの晩餐。

明日は午前中に荷物の搬入があるし、やらなければいけない手続きもたくさんある。少し早いが寝ることにした。歯を磨いて、マットレスの上に寝そべる。前の住人が置いていったスヌーピーのフィギュアがぶら下がった紐を引っ張り、電気を常夜灯にした。

天井の上からなにかの音がした。ねずみは困るな、などと思っていたら意識がなくなった。

早朝、バイクのエンジン音がしたような気がして目が覚めた。体が少し痛い。マットレスだけで寝たのだから当然だ。二度寝しようと思って目を瞑るが、なかなか眠れない。諦めて体を起こした。

起きてみると、室内は虫だらけだった。開けていた窓の網戸のどこかが破れていたのだろう。電灯の周りでは蛾が力なく羽ばたいていた。窓を全開にして、蛾には出て行ってもらった。

壁に張り付いていた小さなカミキリムシは、掴むと抗議するような音を発した。こちらも外に出て行ってもらった。

食パンにはちみつをかけて朝食とした。

今日は午前中に荷物が届くことになっている。引越しの荷物が届くのを待っている間というのは落ち着かない。本を読んでも言葉が上滑りしていく。本を放り出してマットレスの上に寝転がる。

玄関の方が眩しい。立ち上がって玄関の方に行って見ると、玄関の扉の周辺から光が漏れていた。長方形の光。とても綺麗だった。冬は寒そうだなと思った。くふふっと変な笑い声が出た。

実際、冬の部屋はとても寒かった。

寝転がってぼんやりしていたら荷物が届いた。大きな荷物は一人暮らし用の冷蔵庫くらいで、段ボールは大した数ではないので搬入作業はすぐに終わった。アパートの前の道は狭く、トラックが近くに停めることができないため、引越屋の方には苦労をかけた。

部屋の片隅に積まれた段ボールを一つずつ開梱していく。荷物はそんなに多くないとはいえ、開梱作業というのは疲れる。当分使わなさそうなものは、とりあえず物入れに押し込んだ。

荷物があらかた片付いたのは昼を過ぎた頃だった。

疲れていたが、洗濯をすることにした。洗濯機はまだ買っていないので、アパートのそばにある共同のコインランドリーに向かう。コインランドリーと言っても、トタンの屋根と壁で雨避けをしたスペースに縦型の洗濯機が二台置いてあるだけである。使うときは柱に括りつけられた貯金箱のような箱に百円を入れるシステムだった。貯金箱に百円玉を入れ、衣類を洗濯槽に入れていく。

衣類を洗濯機に投入してから洗剤を買っていないことに気づいた。仕方ない。ひどく汚れたものもないので今日は洗剤なしでいいだろう。洗濯機の蓋をしめ、ボタンを押して、水が出てくるのを確認してから、部屋に戻る。

早朝に起きてしまったせいか、ひどく眠い。今眠ると夜まで寝てしまいそうなので、洗濯が終わるまでは部屋につっぱり棒を取り付けたり、棚の組み立てをして眠らないように時間を潰した。数十分後、コインランドリーまで洗濯物を取りに行き、ベランダに干した。

眠気がなくならないので、少しだけ眠ろうと、布団に横になった。柔らかくて気持ちいい。

起きた時は部屋の中が薄暗くなっていた。虫の音がいやに大きく聞こえた。

洗濯物を取り込んで、食料の調達のためにスーパーに出かけた。玉葱、人参、鶏肉、鶏卵、素麺、麺つゆ、蚊取り線香などを購入した。

アパートの近くまで戻って来ると、火薬の匂いがした。そして閃光が見えた。近づくと大家さんがいたので「こんばんは」と挨拶をする。大家さんの親類だろう、夫婦と思しき男女、中学生と小学生くらいの男の子が手持ち花火で遊んでいた。閃光を出し尽くした手持ち花火がバケツの水に浸けられて、じゅっという音を立てた。

最後に花火で遊んだのはいつだろうか。打ち上げ花火を見たのも随分前な気がする。部屋に戻り、窓を開けて、蚊取り線香にライターで火を点けた。

湯を沸かし、素麺を茹でて食べた。段ボールから本を引っ張り出してパラパラ読んでいると、開け放した窓から雨の匂いを感じた。窓を閉め、蚊取り線香を消してから布団に潜り込む。

案の定、翌日は雨が降った。

もうすぐ有休消化が終わり、無職になる。離職票が届いたら、ハローワークに行かないといけないなと思った。

← vol.4 へ戻る